今日も一応は出社。 定時までの8時間をいかに過ごすか。 これと言ってやることも無し。 今日は公休でほとんどの現場作業員は休んでいて人がひっそりとしている。 技術部がなにやら確認作業でAGVを稼動させているけど・・・。 生産管理課の私・・・。 とはいっても現場サイドに位置づけがある仕事であるので、正直、遣ることがない。 来週からは本当に遣ることがなく、会社がやむなく用意した教育実習をすることになる。 これが・・・。 あまりにも不自然でね。 ある意味プロフェッショナルなわれわれに再教育?? あほか!
ともあれ、形だけでも”仕事”をしていないで給料を貰うという日本人的な律儀なのか貧乏性なのか・・・。 ある種のオーセンティックな風習なのか?? 生産がないならズバッと休みにしたらいいのにね・・・。 なんだろうね、日本人の生真面目なところは評価するとしても、あまりにもそれが形に拘ったものである場合にはむしろ滑稽ですらある。 それって、たぶん、これこそが、日本人的な美学?なのか?
はっきり言わない風習で育った日本人的なうわべの美学は福島原発の小出しにして、さらに報告も後手後手に回す日本人の資質ではないだろうか。 江戸や大正時代ならそれも情緒ある審美的な行為でもあるかもしれないけど・・・。 グローバルな現代社会がこのはっきりしない日本人的な感性を理解することは難しいのではないか。 さらに今を生きている世代には概ね理解できない部分もあるのではないだろうか? そうゆう僕自身でも、はっきり言わないことがほとんど日常生活のなかで暗黙の了解的なニュアンスでコミュニケーションが成り立っていることが意外と多いことも、それはそれで問題でもある。
さてと・・・。 ともあれ・・・。
「今を生きずしていつ生きる時があるのだろうか?」
「真実は決して想像すらできない。真実は人が考えるより、はるかに超越したところに存在する」
「天地の神々はこのちっぽけな存在を見逃しては居ないし、忘れていることもない。 私はここに、天には神が、大地は私の存在を教えてくれる母親かもしれない」
僕はそんな風に時折思ったりするのです。