☆わんこと一緒の想い出と共に☆

シェルティと暮らしていたマールママの記録と記憶のためのページ

お誕生会

2011年03月05日 | 三婆通信

亡くなった後の さまざまな手続きを終えた私たちは 叔母のお世話になった施設を訪問しました。

少人数で アットホームな ケアハウス   

ここ2ヶ月の間  始終 我が身内の者が 実家にでも訪問するように 

代わる代わる何度も訪れ いつもそこに居る人たちとは 親戚のような気持ちになっていました。

初対面のとき無表情だった入所者の Yお爺さんも すっかり明るく笑顔で迎えてくれます。

壁には バレンタインのときの 二人の叔母の笑顔の写真が貼られていました。

 

 

亡くなる わずか2週間前 この日訪れた姉夫婦の持参した 桜餅を美味しそうに食べたそうです。

 

ちょうど私たちが訪問したその日 1の叔母の 89歳のお誕生会 がありました 

本当は 3月1日生まれの1の叔母と 3月30日生まれの2の叔母 二人の誕生会をやってくださる予定だったのだそうです。

ケアマネのNさんやホームの方からもケーキやお花をいただき みんなで ハッピーバースデー 

わたしたち三人も加わり 花束を持参 一緒に お祝いをしました。

 

大感激の 叔母から 

「きょうまで 89年間 生きてきて 最高の誕生日でした。皆さん 本当にありがとうございます」と

最大限のお礼の言葉が述べられました。

    

 

いただいたお祝いの色紙には バレンタインの日の二人の写真も入っています。

明るく 社交的な叔母は ホームの中でも 人気者らしく皆さんとよくうちとけていました。

家にいると 亡くなった2の叔母のことや心配ごとばかり考えて 暗い表情でいるのに

それなりの気づかいはあったにしても 皆さんにとても優しくしていただき 

本人も私たちも安心できる場所ができて本当に良かった!

スタッフの皆さまがたに 助けられながら これからも残された二人の叔母を支えていきたいと思います。

 

 

 


葬送のカタチ

2011年03月04日 | 三婆通信

余命 1~2ヶ月・・・ それよりも長いかもしれないが 明日かも わからない・・・

そのような宣告を受けたことは、ある意味 心の準備を与えられることでもあった。

その日が いつなのかは わからないけれど お葬式のことを決めておく必要があった。

送る人も 送られる人も高齢  手伝ってあげれる人も遠隔地

私たちは 葬儀は簡単にして 生きているうちに 安らぎ喜んでもらえることを精一杯してあげようと決めた。

 

 

近年 よく聞かれるようになった 直葬 (火葬式)を するにあたって

納骨する菩提寺の ご住職に前もって相談の電話を入れたのだが理解が得られず困ってしまったが 納骨の了承は得られた。

もうひとつの問題は そのような形のお葬式を見たことがない 1の叔母の心のケア

さまざまな問題や 自分の心の迷いで きちんとしたお葬式をやってあげるべきではないのかと悩んだ。

しかし、宗教や宗派によっては様々な葬送の形があってしかり・・・

いろんな人の意見を聞き、温かい心と気持ちが通じることが一番なのだと 納得した。

 

亡くなった翌日は 小春日和の日曜日

設備の整った斎場に運ばれ そこで荼毘に付された。

その間 出席した人たちで お清めの会食

叔母と関わりの一番深かった身内 10名での葬送

いつも叔母を訪れる日は お天気にも恵まれ一日延びると友引きで出来なかったし 本当に後生の良い叔母

 

お骨となった叔母を連れて帰り 叔母の部屋に収め 後日 四十九日の法要をして納骨することにした。

穏やかな笑顔の遺影は、3年ほど前 私と姉が遊びに来たときに撮ったもの

  

「ありがとう・・・心配かけてごめんね・・・」 なんども言っていた言葉が聞こえるようだった。

1の叔母の戸惑い・・・疲れながらも お骨に付き添って居てくれている 3の叔母

残された二人の叔母の心配は尽きないが お葬式が終わり

私と姉、R嬢の三人は 手を取り合って「無事に終わってよかったね」と 涙を共にした。

 

そして2日後、三人で市役所などの手続きを済ませ お世話になった方々へのお礼に伺った。

 

長過ぎず 短過ぎず 温かい人たちに囲まれて 旅立った2の叔母

天国の叔母から お礼の花束が お世話になった方々に届けられました。 

 

 

 ありがとう 』 の感謝の言葉が添えられて 

 

 

 


安らかに

2011年02月26日 | 三婆通信

Tm叔母(81歳) は 今朝 4時ごろ 息をひきとりました。

「わたしは ここに居たい・・・」と望んでいた

あたたかな ホームの方々に 見守られて 幸せな最後だったと思います。

病気が発覚してから、わずか2ヶ月足らずの間

病院の先生・看護師さん・ソーシャルワーカー・ケアマネージャー・ホームの方々・訪問看護の看護師さん

世の中にこんなに良い方がいるのだろうかと思うほど本当に優しく親切な方々に囲まれて

理想的な ターミナルケア を見た思いがしました。

 

  

 

意識があるうちに それぞれ会いたい人たちと お別れをして

「ありがとう・・・ ごめんね・・・」を繰り返し

迷惑をかけることを一番に気にしていた叔母らしく

土曜日の朝に亡くなり 日曜日のお葬式となりました。

 

明日は近親者のみで葬送します。

私は3日前 最後のお別れをしてきましたが

きょうまで頑張ってきた叔母を見送ってあげるべきと

やはり 明日の朝向かうことにしましたが

気が抜けてしまい 涙も出なく なにも手が付きません。

 

 

これまで叔母を支えてくれた皆さまに 心から感謝するとともに

ブログを通じて 見守り応援してくださった皆さま方 

本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 


三婆その後

2011年02月17日 | 三婆通信

2の叔母が、ほとんど食事を摂れなくなっているとの報告を受けて

月曜日に 姉夫婦がまた 叔母たちに会いに行ってくれました。

その日は、気分がよかったのか持って行った 桜餅を食べて 「おばさん、何か食べたいものある?」と訊いたら

梨がたべたい」と答えたそうです。「今の季節は無いかも?他には?」というと「メロンとカステラ」と。

「今度買ってくるからね」

きょう姉は デパートで梨を見つけて明日持っていって食べさせたいといっていました。

 

 

自宅に戻らず、1の叔母に付きっきりで1ヶ月以上お世話をしていた 3の叔母も来週は自分も1ヶ月に一度の通院の日。

疲れも出ているので、少しの間家でゆっくりしてきてもらいたいと思い1の叔母のショートステイをお願いすることにしました。

明日から初めて5日間のお泊りです。

案ずるより・・・なんとやらで本人は素直に了承してくれたそうです。

ちょうど姉が施設に訪問して本人に確認して申し込みました。

わたしは、ひとりじゃもうなにもできなくなっちゃたから・・・みなさんが、とても良くしてくださるし・・・よろしくお願いします」と手を合わせて拝んでいたそうです。

今、自分の置かれた状況で見ず知らずの人たちのお世話になってみて、親切やありがたさが身にしみてわかってきたのではないでしょうか?

2の叔母も 「病院よりも家よりも ここが一番いい 」と。

 

世間では 孤独死・無縁社会 などと騒がれている時代

病院の先生・ソーシャルワーカー・ケァマネージャー・施設長のみなさんが三婆のことはよく存じ上げてくださっていて

連絡をとりながらとても良くしていただき感謝の気持ちでいっぱいです。

 

きょう夕方、ケアマネージャーの方から お電話をいただきました。

2の叔母の病状が思っていた以上に進行が早く、食事は固形食はもう食べれなくなり水分をキューブにして摂っているとのこと。

痛みはモルヒネに代わるパッチタイプのお薬が効いているそうです。

明日、私と姉が行くことになっているので 看取りのことも含めて 相談することにしました。

 

2月半ば・・・あたふたと 三婆の問題に関わってから 1ヶ月過ぎました。

こちらは、ここ数日の気温の上昇で雪がだいぶとけてきています。

 

 

 


まごころホーム

2011年02月13日 | 三婆通信

2番叔母が退院し 施設(ホーム)にお世話になるようになって1週間過ぎました。

あの時点で 病院に入院させてもらえたこと、退院後に入所するところがあったことは本当にありがたく、神のお導きと感謝しました。

それだけ叔母が家に帰ることは、本人はもとより周りのものも心配なことばかり・・・

いつもの暮らし慣れた生活の場が、介護が必要になった老婆二人には危険きわまりない場となってしまったのです。

それでも、病院はともかく 行ったことのない施設に行くとなると、

とんでもない 収容所 にでも送られるかのような不安に襲われるようなのです。

それは二人の叔母だけではなく、私の両親がそうであり夫の両親の場合もそうでした。

認知症が進み そのこと自体がよく理解できないくらいになれば受け入れられるのでしょうが

「自分はまだ、あんな呆け老人と一緒にされたくない」という気持ちが強いのです。

抵抗をみせていた2番叔母も、入院前に一度初めてのディサービスを利用していました。

そして退院後も、そちらでお世話になることが決まり、まっすぐホームにむかいました。

「Tmさん 退院おめでとうございます」と 書かれたポスターと拍手で迎えられ本人はとても感激し涙を浮かべていたそうです。

そして、心のこもったお料理での退院祝いまでしていただいたようで送って行った姉夫婦も喜んでいました。

少人数のホームで、まごころのこもったお世話をしていただいているとのこと。

本当によかったと思っています。

 

 

そして問題の1番叔母も週に2度同じところに通うようになりました。

子供が幼稚園に行き始めたころと同じで、熱を出したり・・・連絡帳もあるのだそうです。

あんなに嫌がっていたのに、今はすっかり行くつもりでいるらしく今度 月・水・金の3日間お願いすることにしました。

まだ要介護認定がおりていませんが実費でも今はそのほうが安心です。

ずっと1番叔母のお世話係として付いている3番叔母も限界にきているようなので

老人ホームの入所も考えていかなければならない時期にきているようです。

そのためにも少しずつステップをふんで慣れてきていることは良い方向に進んできたといえましょう。

私は、この通りガンコだし そういうところには絶対行かないって言うと思うから、首に縄つけてでも連れて行ってちょうだいね!」

しっかりしていた頃の1番叔母は、以前そのように言っていたと。。

 

きょうは、仙台の弟夫婦が三婆の陣中見舞いに行ってくれました。

叔母たちは、とても喜んでいました。

 

2番叔母は長く椅子に座っているのも辛そうで食欲も落ちてきたそうです。

元気なうちに、もういちど会いたい。。

今週末 また行ってみようと思っています。

 

 

 


老老介護

2011年02月08日 | 三婆通信

ほぼ毎日報告がある 叔母(3)からの 電話 

 

姉(1)がきのうの夜、横浜のおじちゃんのところに電話したみたいなの。

なんでも「Tm(2)さんが お金がなくて困っている」って!

毎日 お金!おかね!ってうるさいから私聞こえないふりしていたからね。

いくら持たせても、出したり入れたりしているうちにどこにやったかわからなくなるのよ~!

それにきのうは、ゴミの日でもないのに古い絨毯をひきずっていって出していたの!

あの重いのどうやって出していったのかしら?!

火事場の馬鹿力みたいになるんだろうかね?!それを私がまたひきずって持ってきたわよ・・・

ま~ったく!「余計なことしないでっ?!」て怒ったら

「ゴメンナサイ・・・あたしだって何かやりたい・・・」って・・かわいそうだけどね・・・

そのうえガンコでどうしようもないの!

せっかく Rがお洋服買って持ってきてくれたのに 着慣れたほうがいいってきかないの。

ディサービスのお迎えが来るのに間に合わなくて、

また”着たきりすずめ”で出て行ったわ~

歳はとりたくないわね~   

と 78歳の叔母

 

入院中の叔母が退院する時も、姉夫婦が来てくれて本当に助かったと言っていた。

担当の先生からのおはなし、訪問看護の手続き、ホームに持って行く荷物の準備・・・

高齢の叔母ひとりでは絶対に無理だったと思う。

 

今は気を張って頑張っているけど、3番叔母も そうとうに疲れている。

早く逝く人はかわいそうだというけど、そんなこともないわね!

みんなやってもらえるし残っているものの方が大変だわ・・・」と言っていた。

1番叔母の、お世話だけでも大変なのに・・・2番叔母の部屋の片付けもやっている。

私も、早く楽したい」と書かれた2番叔母のメモがでてきたそうだ。

早く1番叔母から解放されたい・・という気持ちのことだと思う。

その叔母が、1番叔母より先に病気が進行してしまった。

ケアマネージャーの方にも

私は家に帰れば姉の世話をしなければいけないから家には帰りたくない」と言っていたそうだ。

今は、あたたかなホームでみんなに優しくしていただいている。

日曜日、T兄が息子を二人連れて面会に来てくれたそうだ。

三婆にとっては、かわいい孫のような存在。

久しぶりに会う、思いがけない訪問者にとても喜んで嬉しそうだったという。

みんなが、代わる代わる会いに来てくれたり 優しい言葉をかけてもらい

わたしは幸せ者だわ~」と電話口でも言っていた。

その幸せな時間は どのくらい残されているのだろう・・・

退院の時、肺と肝臓にも転移していると告げられた。

 

 

 

 


ヘルプの加減

2011年02月03日 | 三婆通信

病気の叔母は 強いお薬に替えて 痛みも軽減し明日 退院することになりました。

明日は、姉夫婦が病院に行ってくれることとなり、とりあえずホームに入所させてもらうことになっています。

1番叔母も、いやいやながらもディサービスを何度か利用し機嫌よく帰ってくるようです。

3番叔母が、お世話をしてくれていますが 認知症もすすみ

毎朝 通帳を広げては暗い顔で残高が減ったことに不満を言っているようですが。(苦笑)

ともあれ、これまで二人で頑張ってきた 老婆の限界暮らし にも介護の手が差し伸べられて 少しは安心しました。

三婆の ドキュメンタリーには 

サプライズあり!  ミステリーあり! はたまたサスペンス?あり・・・

ここに書けないことも含めて さいたま いろいろ アリーナ 

 

                  

 

遠隔地より愛をこめて 心配しながら みんなの協力を求め 指図している私と姉 

電話の話を小耳にはさむ、互いの連れから 的確なアドバイスを受けて軌道修正することが多々あった

ことに私は 頼まれもしないことまでやっている  超おせっかい であることは承知している。

自分がやれる範囲で ヘルプ してやる分には問題はないのだが 

他の人にまでも自分の考えで無理を強いてしまっていたのではなかったのかと少々反省している。

限界なのは お前のほうだよ!と みんなに心配をかけてしまったが、

ひとまず ここは3番叔母に お任せして 見守っていくことにした。

そして、ヘルプの要請があったら  すっ飛んで 手助けに行きたいと思っている。

 

 


危うい限界暮らし(その3)

2011年01月30日 | 三婆通信

2度目の3日目  

その日は土曜日 病気の叔母を病院に連れて行く日 

R嬢と兄も来てくれることになっていたので、今後の二人の叔母をどうするかについて皆で相談することにした。

叔母宅に行く前に待ち合わせをしてケアマネージャーの方から介護施設についてのなどの説明を受けた。

さしあったては痛みが出てきている叔母の問題。

その前の週に私が来て帰る日のころから「腰がはんぱじゃなく痛い」と言って座るのも歩くのも辛そうだった。

お世話をしている3番叔母から、ポータブルのトイレや紙パンツをいやがって間に合わなく後始末が大変だと聞いていた。

1番叔母もそれをみて「かわいそうに、どうして病院で入院させてくれないの?」となんども言う。

前日、銀行でお金をおろしてきたときも「これでおばちゃんを入院させてあげられる」と安堵していたのだ。

2人暮らしの支えあっている関係は、どちらかが弱くなるとどちらかがしっかりしてくるということはよくあること。

病院には姉と兄が付き添い、私とR嬢は残って1番叔母・3番叔母と話をしていた。

立場的に、ちょっと離れた関係の私は他の人が言いづらい大切な話も この機を除いたらもうないかも・・・と

いろいろ話をする中で「おばさん、このおうちはどうするの?」と私が訊いたら きっぱりと答えた!

「おばさん しっかりしている!すごいねぇ!こういう大切なことはきちんと書いておかなくちゃ!」と言うと

しっかりとノートに書いた!「自分でも書いて封筒に入れておこうと思っていたのよ」と言う。その日はとてもさえていた!!

法的にどうのという以前の問題で、叔母の気持ちを尊重した後始末には必要不可欠なこと。

重要な問題がひとつ解決した。そして、もう一つの問題。

「2番叔母は、ここの家のお墓に入れるの?」 「入れると思うよ」と答えた。

ところで2番叔母の本当の気持ちはどうなのだろう? 

むかし、私の家に手伝いに来てくれていたころ「私は子供もいないし迷惑かけたくないから ”献体”しようと思っているの」と言っていたことを思い出した。姉にも、そのように言っていたらしい。

しかし、それも本人が登録していたらできたことかもしれないが家族の承諾も必要なようだし今となれば・・・

           

                    

 

病院に付き添っていた姉から電話があり とりあえず入院させてもらえることになった との一報が!

みんな手を叩いて喜び「よかった!よかった!」と涙をながしながら「おじちゃんが守ってくれていたのよ!」と仏壇に手を合わせていた。

入院準備をしたり、サインが必要な書類があったり みんなで手分けしてもやることはたくさんあった。

とりあえずの入院の件も、いろいろあって大変だった。介護・病院・たくさんの書類は R嬢が 全部記帳してくれた。

要介護の認定はまだ先になるらいが、先日2番叔母が初めて利用したホームに1番叔母も週1・2回ディサービスの利用をさせてもらうことにし係の方もみえてくれた。

当のご本人は「私も、いずれはお世話になることになると思うんですけど まだね・・なんせ、この頭がガンコなんですよ」とかおっしゃっている。

3番叔母に一緒に暮らしてほしいと言っているそうだが「毎日一緒にいると、Tmさん(2番)がどんなに大変だったかよくわかる。私は、とても暮らせない」と言っていた。それでも今は自分が付いていてやらなければとがんばっている。

1番叔母に「ひとりになってどうやって暮らしていくの?」と聞くと「〇△さんが、なんでもやってくれるから」と答えたそうだ。

「何でも買ってきてくれるし銀行にだって行ってくれる」 と!     遠くの親戚より近くの他人 

お世話になっているご近所さんは、この老人たちにとって どんなにか心強く信頼されている存在だったのだろう。

もう戻ってはこないであろう 例の使途不明金も 犯人探しはやめた。

本人たちのやっていることも、訳のわからないことが多いうえ警察沙汰にでもしたら逆恨みで、なにされるかわからない。

そのほうがもっと怖い。

それにしても、頻繁に出入りしていたご近所さんは 最近叔母の顔がみえないけどどうしたかしらと?訪ねてくることもないというから不思議。

幸い、カードの悪用された件については 明らかに不正使用が認められたので全額口座に返金されるとの連絡が信販会社から入った

認知症の人の財産の管理は 後見人制度 というものがあることは知っている。

しかし、ここ数年のあいだに、すっかり目減りした叔母たちの老後の予備費は、そこに頼むほどのものではなくなっている。

乗りかかった船。あとは、わたしたち身内のサポーターが団結して残された老後を守ってやらなければ。。

セカンドライフの お仕事として多くの方がボランティアをやっている。

看護師さんのように、介護施設で働く方のように・・・大変なお仕事は私にはできないけれど、

せめて身近な年寄りの手助けだけでも力になってやりたいと思う。

叔母たちの暮らしから、これからの私たちの老後に 学び考えさせられることは多かった。

北へ北へとまっすぐ走る 帰りの新幹線の中で さまざまなことに思いを巡らした。

 

 

 


危うい限界暮らし(その2)

2011年01月29日 | 三婆通信

3日目

朝食も早々にホテルを出た私は、叔母宅に向かい すぐに2番叔母の貴重品をチェックした。

叔母の通帳のカードと同じ入れ物に JCBのマークが見えた!

叔母に訊ねると ヨーカ堂のカードだという。10年くらい前に作って何度か使ったことがあるというが

通帳を見ても、ここ数年は年会費だけの引き落としで使った形跡はない。

誰かに貸したこともなく、落としたこともないと本人は言うが、よく忘れ物をして歩いているし…

でも なぜカードがここにある??? どうやって使われたの???  謎は深まるばかりだった

すぐに本人をそばにおいてカード会社に連絡し事情を説明 退会届と停止を願い出た。

その日は、病院に行く日でもあり 兄が来てくれ二人で連れて行った。

病院では病気の経過などの説明が先生からあったが、余命についても触れられ 辛い宣告だった。

本人は、「おまかせするわ~」と廊下で待っていたが、あまり深刻には思っていないようだった。

病院での治療はできないとなると、その後のことについてソーシャルワーカーの方に相談にいった。

ホスピスと 介護施設ですぐに入れてもらえそうなところを、そこで紹介してもらった。

兄の車があるうちにと、介護施設を見に行った。

車中でも兄と私はカードや通帳のお金のことを話していたが警察に届けたほうがいいのでは、ということになり

その施設のすぐ近くに警察署があったので相談に行った。

カードが手元にあるのでは盗難にはならないし、家に出入りしている人が疑われるだけというような話でそのまま帰ってきた。

そのあと訪れた介護施設は、こじんまりとした小さな家を利用した通所介護施設だった。

叔母は「ここは、私あまり行きたくないわ・・・」と言ったが「せっかくだから見ていこう~」と中に誘い入れた。

ソーシャルワーカーの方から連絡があったと、ケアマネージャーと施設長の方が笑顔で待っていてれた。

そこで出会った、お二人には その後何かにつけて大変なお世話になることになったのである。本当に良い方と巡り合えた。

難色を示す叔母を傍らに、翌週初めての ディサービスをお願いする手はずを整えた。

限りある時間内にやらなければならないことが山積みだった。またお昼もたべないままに3時が過ぎていた。

その日の夕方の新幹線で帰る予定になっていたので、兄と叔母と三人で食事をしながら姉に携帯で連絡。

私も混乱しているので、姉にはとりあえずソーシャルワーカーの方との窓口になってほしいと病院やホスピスのことをお願いし

ケアマネージャーを通した介護関係は私が担当することにした。

疲れもピークに達していた。神経がすり減ってしまい新幹線のなかでも眠れないまま 雪の秋田に到着した。

今年は例年にない大雪

夫の留守中ということもあり 緊張感と 毎日の雪寄せの作業の疲労もあってヘロヘロだった。

翌週も行く約束をしてきたものの、大丈夫だろうかという不安もあり近くの循環器内科の先生に診ていただいたが

異常はないと言われ 家に帰ってからは極力体を休めて備えた。

  

             

 

翌週 1日目

5日目にして また上京した私。まだ疲れはとれていなかった。

羽田で夫と待ち合わせをして わずか20分くらいの面会だったが 留守宅のことは任せられるのでホッとした。

その夜は8時ごろ  私の一番くつろげる場所である姉宅に着いて 心臓の動悸も落ち着いて 安心した。

翌日は叔母宅に市役所の方が10時に介護認定の面接にくるので朝6時に起きて電車で移動することになった。

  2日目

大宮の駅で朝食をとり叔母宅に着いたら、もう係の方がみえて 二人の叔母の調査を始めてくれていた。

あとで聞いた3番叔母の話によれば、1番叔母のほうが受け答えはしっかりして2番叔母は今何月?とか季節を問われても

とっさに答えれなかったようである。

午後には、1番叔母の補聴器をもらいに病院に予約も入れていたのでその前に、大切な用事を済ませることになった。

前回の郵便局に連れて行った時の様子や家での二人の叔母の様子から、このままでは預金を引き出すのも難しくなることが目に見えていた。

3番叔母やその娘 R嬢とも相談の上 定期預金の解約をして これからの介護費用を準備することは急務であると。

1番叔母は名前を書くのがやっとだったが 、なんとか書くことが出来た。

しかし印鑑が違っていたり本人の顔写真がついた証明書がないなどの理由で、さんざん待たされた他、付き添いの姉は免許証のコピーをとられたり、なんだか犯人扱いのような後ろめたさがつきまとい本当にいやな思いをした。

逆の立場から見れば、なりすましなどの犯罪が多い中 当然なことではあるのだが・・・

自分のお金なのに、下ろすとなったらこんなに大変だなんて!

「歳をとってから 貯金なんてしておくもんでないね!するお金もないけれど」・・・と姉とふたり 

老人とお金の問題 では、いやというほど辛酸をなめてきた私。複雑な思いもあった。

でも、それだからこそ 力になってやりたいと思う原動力になっているのでもある。

その後、姉と1番叔母は病院へ。

補聴器を付けて帰ってきたが まだ慣れなくて、音を拾うのが難しそうだった。

「聞こえなくて都合のいい事のほうが多いけど、テレビの音なんかまわりが迷惑だしね・・・」と下の二人の叔母。

私は、再発行をお願いしカード会社から送られてきていた明細書を調べていた。

22件にも及ぶその内容は、コンビニやガソリンスタンド・カーショップ・レストランなどなど、およそ高齢者には無縁のお買いものばかりである。

この1週間のあいだ 姉や叔母たちと謎解きをしていたが 心当たりはあるものの 確たる証拠はない。

あっという間に日は暮れて・・・・その日も お昼は食べ損ねてしまったが、

その夜は姉と二人 先日泊まった大宮の駅前のホテルで さまざまな今後の問題の対応や翌日の打ち合わせをしながら食事をした。

 

 


危うい限界暮らし(その1)

2011年01月28日 | 三婆通信

子供のいない 一番叔母の旦那さんが亡くなり 同じく子供のいない2番叔母が一緒に暮らすようになったのはもう ずいぶん前のこと。

姉のもとで気を使い 一緒に暮らすんじゃなかった・・という2番叔母の声は よく聞かれたが

表面上は 互いを気遣い うまくやっているようにみえた。

そんな2番叔母は、どこかで誰かが病気をして困っていたりすると、よくお手伝いにきてくれた。

しかし叔母たちも年をとり 出かけることも少なくなって二人の暮らしを時々訪れる3番叔母と、

ご近所の 親切なお世話係 に頼っての日常生活。

今回の2回の訪問で 限界生活に潜む危険 を目の当たりにすることとなったが

最初の訪問は、私がひとりだったこともあり 詳しいことをそれぞれに伝えていないので

忘れないうちに なにがあったのか書きとめておこうと思う。

            

昨年秋に訪問し もう限界だし どうにかしてあげなくては・・・と思っていた矢先の出来事

病気の発覚も お正月に遊びに来た3番叔母が泊まり 初めて気がついたときは

すでに 手は腫れて胸には病魔が露見していたようである。

姉が一報を受け病院に付き添ったのはお正月明けの第一週 

乳腺外来が土曜日の診察だったので R嬢も同行して先生の説明を受けてくれた。

翌週の外来には 埼玉の私の兄が付き添ってくれることになっていたが 深刻な事態に私も急きょ行くことにした。

とにかく介護の手続きをしなければ・・・・ネットで事前に調べて行った。

1日目

新幹線で大宮に降り立ち、すぐに向かったのは 地域包括支援センター

事情を話し 相談に応じてもらった。まずは二人の介護保険の申請

その申請を受けて翌週 市の訪問調査 の方が見えることになり、そのときに立ち会うことも約束した。

その後、叔母宅に着いたのは 午後1時半を過ぎていた。

その日のうちに、やっておきたいことが 郵便局での定期預金の解約

昨年秋に 叔母から預かっていたものがある。三婆をひきつれて窓口へ。

まだ字をかける。 やっと歩いている。 認知症が出て同じことを何度も聞く。

タイムリミットだった。

これから入院するにも施設に入所するにも お金は重要なファクターである。

ふたりの叔母のまだあるかもしれない通帳や口座の照会も申し込んできた。

印鑑が違っていたり 書き間違えたり 何時間もかかった。お昼もまだ食べていない・・・

そのあと三人を食事に連れて行った。 

みんな 結構な食欲で 美味しそうに 食べていた。

1号叔母は 転んで倒れ時のあとで パンダのような目をしていた。

 

叔母宅に戻ると もう5時を過ぎていた。

ほんとは、その夜 病気の叔母を誘って一緒に ゆっくりしたいと思いホテルを予約していたのだが

本人の気持ちに行動が付いていけなく 結局 わたしが一人でホテルに泊まることになったが

結果からいえば やはり無理だったし 私自身も疲れを取る意味でもよかったのだと思う。

2日目

もうすでに 筆談でなければ 話が通じないほど 難聴になっていた 1番叔母

その日は  埼玉在住の従姉の S子さん夫婦が 補聴器のことで病院に連れて行ってくれることになっていた。

その間、私と3番叔母は 1番叔母の部屋を片付けることにした。

昨年暮れから 何度も お金が無くなった と騒いでいるらしいし実際 二人の通帳を見ても多額の現金が引き落とされている。

秋に来たときも大掃除をして お金の入った袋が見つかっているので、大方その辺にまた袋に入って挟み込んでいるのでいるのだろうと思っていたが、こたつ板の下から 少しまとまったお金はでてきたものの、その大金は見つからなかった。

ほこりにまみれての大掃除 どっと疲れが出た。 

2番叔母も銀行の口座からカードで最近も引き落としてきたというのだが 通帳は秋から記帳されてなかったので

借りていって記帳してくることにした。

その夜ホテルに向かう途中 ATMで記帳し 私は 青ざめてしまった!

11月と12月 カードでの現金引き落としが限度額で2回のほかに 

信販会社のカード払いでのショピング 12月と1月 合計で40万近く 引き落としされている!

明らかに、そんな大金使った形跡もなければ叔母がカードで買い物など使ったりするはずもなく 悪用されていると確信した!

その夜、私は幼馴染の K子と 食事の約束をしていたので まずは今更 騒いでもどうしようもないので

その時間だけは忘れることにした。

 

    

 

いつ 何年ぶりにあっても 笑顔で なんの気兼ねもなく 素のままで会える友と

ホテルの31階の 夜景を眺めながら ワインとイタリアンで 楽しいひとときを過ごした♪

怒涛のような3日間のなかに そんなひと時が あったことが 救われる。

ありがと~ k子 ! おみやげの スィーツも とびっきり おいしかったよん 

 

その翌日には また目の回るような 1日が待ち受けていた