長文誠に失礼。
私は、この、日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)の信心を始めて、今年で六年、年数で言うと、七年目になるのかな?とにかく、それだけの年月が過ぎた。
この間、多くの、我が宗、日蓮正宗の方々には、お世話になりっ放しの、大変に、こちら側も、負担等々も、こちらが掛けたかも分からないが、とにかく、大恩(だいおん)を受けて申すまでもなく、大変に感謝を申し上げたい。誠に有難う御座います。大恩に、感謝に耐えません。
私の折伏主(しゃくぶくぬし)は、G前講頭(ぜんこうとう)さんと、育ての親は、Gさんと、S楽さんと、K俣さん、この三名だと思う。自分では、そう思っている。折伏主がGさん、これは不動の地位である。
育ての親は、まあ、これは、私の独断に近いが。独断専行(どくだんせんこう)で構わないとも思うが、相手もある事なので…。迂闊(うかつ)には判断専断してはいけないが。しかし、この方向でいいと思う。これらの方々から、正式の、御認可(ごにんか)も受けてはいないので、ちょっと問題かも知れぬ。
しかし、「人生、皆、師なり」をモットーとする私には、この方向でゆきたいのだ。あくまでも、私の願望である。
これは、年上の人に限らずに、私が優れた人だと判断すれば、その人柄により、年下、後輩の方々にも、その気持ち、私は素直に従う心持(こころもち)は、充分・断然ある。私は、優れた卓見(たっけん)を持つ方を、三顧の礼(さんこのれい)をもって迎える用意はある。一応、「依法不依人(えほうふえにん)」法に依って人に依らず、の大仏法(だいぶっぽう)の大原則は守った上での、お話だ。
物事は、フレキシブルに、柔軟性に富んで、増してゆかないと、いけないと思う。年齢などには、私は全くこだわらない。御本仏宗祖日蓮大聖人様(ごほんぶつしゅうそにちれんだいしょうにんさま)だって、年上の、自分よりもかなり年配の弟子や信徒に、御説法(ごせっぽう)、御書(ごしょ)を贈られたりしていて、全く年齢には無頓着(むとんちゃく)、こだわりはなかった。
年下の御自分(大聖人様)が、立派に年上にモノを言い、指導をしていたのだから、私も当然、それに習おう。年下に私も従う。先生は、至る所に居る。しかし、最も大事な師は、うちのお寺の御住職様(ごじゅうしょくさま)、御法主上人猊下様(ごほっすしょうにんげいかさま)、大御本尊様(だいごほんぞんさま)、日蓮大聖人様(にちれんだいしょうにんさま)、これさえ忘れなければ、全宇宙の、諸天善神(しょてんぜんじん)も、神々が、私達を根底から必死になって守っていて下さる。あくまでも、大原則は、日蓮正宗の教義、御教えを守る、と言う事。
猊下様だか、御住職様だか、日蓮正宗の御本だかでも、言っていた。人は一人では生きられない。人は、自分一人で成長したんだ、なんて考える時点で、甘すぎる、人生舐めて掛かっている(この文は私独自のここ最近よく使う表現)、大間違い(おおまちがい)の元(もと)なんだ、と。誰かによって育て上げられたからこそ、今日の自分が、立派にこうして、存在している。それを、大聖人様は、御書の中の「四恩抄(しおんしょう)」だとか、「報恩抄(ほうおんしょう)」だとかで、恩に報いる、恩返しの徳を御説き遊ばされている。
その他にも、私の場合、お寺以外にも、病院医療・福祉関係者等々、昨日もその記事を書いたが、それら、数多(あまた)の、多数の人々の助力(じょりょく)の上に、私の生活が成り立っている以上、いずれ、これから、それら、お寺関係者、医療・福祉関係者、何よりも、この国、大日本国の、天皇陛下様、為政者(いせいしゃ)、各関係者の皆様に、御恩返し(ごおんがえし)をしなければならぬとの考え、所存(しょぞん)である。勿体(もったい)ない、話である。
いわゆる、仏教上の、「四恩」とは、国主(こくしゅ)の恩、衆生(しゅじょう)の恩、父母(ふぼ)の恩、仏教の三宝(さんぼう)の恩、この四つの恩を言う。
この中で、国主の恩とは、私は、国民主権の世では、一般国民を指す、という意見もあるが、それでは、衆生の恩とも重なるので、この場合は、一国の国政の総理大臣・首相が、象徴としての天皇陛下様が、この場合の、国主なのではないのか、とも思う。
仏教の三宝とは、日蓮正宗の場合、仏宝=日蓮大聖人様、法宝=南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の三大秘法(さんだいひほう)の本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊様、僧宝=第二祖開山日興上人(だいにそかいざんにっこうしょうにん)を始めとする、歴代の御法主上人猊下様方、現在までに至る猊下(げいか)様に連なる法統連綿(ほうとうれんめん)の、血脈相承(けちみゃくそうじょう)の、唯授一人(ゆいじゅいちにん)の、法水写瓶(ほっすいしゃびょう)の、伝統宗教の、大仏教大仏法大哲学の、高等宗教の、我らの日蓮正宗にしか、この世を救う、人生の友ともなり得る、素晴らしいまともな宗教宗派は、この我が宗にしか、絶対有り得ないのである。
とにかく、この稿最後の結論としては、私の覚悟として、日蓮正宗で受けた大恩御恩は、全て残らず、お返し致す。
綺麗さっぱり、自身の思うまま、この宗内に於いて、暮させてもらって居る以上、その関係上、その、御恩・奉公(ごおん・ほうこう)の関係性、仁義礼智信(じんぎれいちしん)を欠いては、私の人情が廃(すた)る。
この、一旦、我が宗に危急の時あらば、いざ鎌倉、絶対に自身でも彼(か)の地、総本山富士大石寺(そうほんざんふじたいせきじ)、末寺の菩提寺(まつじのぼだいじ)、に応援に馳せ参じて、立派に駆けつけて見せる。
御本尊の、仏様の慈悲の四力(しりき)、仏力・法力(ぶつりき・ほうりき)に対して、信力・行力(しんりき・ぎょうりき)でお応えする。絶対に、不知恩の輩(ふちおんのやから)であってはならない。厳に自身を戒める。
正に、鎌倉時代のお話「鉢の木(はちのき)」の世界そのままである。それは、その話は、私の、医療福祉関係にも、応用が出来得る。
いざ、世直し、恩返し、の、私自身の覚悟、ここに極まれり、である。
以上。よしなに。wainai