Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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『私の人生の布告・決意』悔悟の念。個人的な事だが、あのお二人には、どうしても、謝り、謝罪したい!

2023年02月05日 07時01分45秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 私には、ここの小欄にて、さんざんの罵倒の限りを尽くした、私が日蓮正宗に入信した時からの、大変にお世話になったお二人、G前々講頭さんと、以前、地区の班長を務められた、S楽さん、この両名には、本当に心の底からの、お詫び、謝罪をしたいと思う。

 この二人、特にG前講頭さんは、私が、六年前の、創価学会から、日蓮正宗に入り直した、2017年、平成二十九年二月八日、初めて、創価ニセ本尊を手にして、日蓮正宗無量山寿海寺にて、勧誡式を母と二人で受けた時に、私が初めて出会った日蓮正宗の信徒であった。

 その時、私は、自転車にていきなりお寺に乗り込み、ニセ本尊をお寺に叩き付け、創価からの脱会をその場で誓った。そして、お寺で、私一人の勧誡式を執り行った後、御住職様からは、「お母さまは元気になさってるのですか?」との御意見を承り、私は、元気だけども、ここまで、この福島の厳寒、酷寒の日には、とてもうちのだいぶ高齢の母を連れて来る事など困難な事共を、その場で話した。

 ここで、機転を利かせて、話をまとめてくれたのが、他ならぬ、G前講頭さんだった。Gさんは、だったら、うちのI本さんの車で、お母さんを乗せて行ってあげる、I本さんは、元タクシードライバーであり、運転には折り紙付きの、上手さ、プロ級であり、この人に任せれば大丈夫、と太鼓判を押して、母のその後の勧誡へのお勧め、彼女・G講頭さんなりの、気持ち、気風の良さで、私に迫った。

 これには、私も心打たれるものがあり、正に、厳寒の、今は、令和の御代の現代現在だが、ちょうど今の頃のお話であり、私には懐かしい。

 それが、私の不注意か、Twitterか本で読んだのか忘れたが、有る精神科医の話を真に受けて、変わったと言われた時はチャンス、その変わったと言われた場合、その人は、単にカモにしていただけであり、それはあなたを利用していただけなのだ、だから、独立のチャンスなのだ、とする言説を、ある日、そっくり、大失礼にも、そっくり、G前講頭さんに喋ってしまったのだ。

 その日以来、私は、Gさんとは、絶縁状態、反目状態であり、絶対に口もきけない仲になってしまった。

 この間、私の怒りも最高な程であり、マックスに達していた。実際に、Gさんは、私が、入院以来、すっかり変わってしまった事を、単に率直に言っただけなのに。

 これは、私の内科の主治医である、地元福島県郡山市の、モミの木クリニックの院長先生、福井謙先生にも、去年十月の、インフルエンザワクチン予防接種の時にも、同じように言われた。

 先生曰く「○○さん(私の事)は、何だか入院前と、入院後と、すっかりキャラ(キャラクター、人格・性格、の類)が変わってしまいましたね。何だか以前の○○さんとは、まるっきり、性格が違う、別人格になってしまわれたみたいですね。」等々と淡々と言われた。

 その時は、お医者様が言われたのだから、本当なんだろう、でも本当かな、位にしか、思われずに、他人事のように、余り気にも留めずに、聞いていた。
 しかし、何だか、私の周りで、私がすっかり変わってしまった、という意見を、多く耳にする機会が、段々と増えて来た。

 ついにはこの間、母の住まう高齢者の特養ホームにて、私と母との、面談がコロナ禍に於いて叶わない中、わたしは自宅のPCにて、ZOOMというPC、パソコンソフトにて、私と母と職員さんが見守る中、対面がやっと、半年ぶり以上に実現した。施設の母の部屋で行われ、私の母は、令和三年三月の入所であり、その時から、コロナ時代で、母の施設は、入口、玄関までしか入れなかった。その為、母の部屋などは入るべくもなく、一度とすら入った事などは、決してなかった。

 それが、現代の利器である、「ZOOM」というソフトのお陰で、私のPCの知識も手伝って、何とか、母との面会に繋がった。母の部屋の様子も、初めて見た。母の元気な姿も拝見出来た。これには、私も喜びひとしおである。

 そこでは、私のような、パソコンで面会に繋がったのは、極めて珍しく、ほぼ会議等ではそこの職員さん達もZOOMを使っていたが、私のようなのはレアケースらしく、ほぼ初めての利用者らしかった。

 そのZOOMの最中、母は大喜びで画面の中の私とお話をしていたが、一言、母が言った一言が忘れられない。「何だか、昔よりも、様子が、人が、変わってしまったみたいねえ。眼鏡も代えて、元々黒のふちの眼鏡だったっけ。変ったわねえ」の言葉だった。

 母にまで、日頃から、生まれた時からずーっと、私を大事に見て、守り育てて来た、母がそういうのならば、それは、本来の、事実、母が言う通り、本当なのだろう。真実に違いない。そう思えるようになった。今の今までが、自分がバカだった。何を、詰まらない事を、私は考えていたのか。

 それから、幾日も考えた。G前講頭さんは、悪気があってそう言ったのじゃなくて、本心から、悪い意味でも何でもなく、ただ率直に、素直に、事実、私の第一印象、第二印象、感想を述べたに過ぎないのだと。そこには、一点の、悪気、と言っては語弊があるが、何にも、私を否定するつもりなどは、全く無かった事を。

 それから、私は、G講頭さんとの、和解・和睦へ向けての取り組みを開始しようと思い始めている。

 それから、こちらは、男性の、S楽さんのケースで、私が余りに話がくどいから、電話口で、もう切るよ、というのが、彼の決まり文句になりつつあった。その、G前講頭さんとお話した当日も、S楽さんと電話でお話していたが、ものの五、六分間で、電話を切ってしまわれた。彼に取り、私は、足手まとい、招かざる客なのであったろう。

 しかし、彼から受け取っていたモノたちは計り知れないほど多い。多くの長き人生に裏打ちされた、お話、体験談を、こんな幼少の、年端も行かない私には語って聞かせてくれていた。それに、彼のうちに行くと、必ず、何かしら、モノをくれた。

 それは、冬の寒い時には、使っていない、自身が使おうとした大事な手袋であったり、冬に自転車で、郡山駅の東口まで来て、今度は郡山西部の我が家の遠い方角まで行くのは、途中、大変だから、何にも、襟巻一つ着て来てないじゃない、と言って心配をしてくれて、「アディダス」の、日本製の、新品の襟巻をプレゼントしてくれたり、彼の家に行けば、必ず、若い頃、自身が郡山のミルクショップ、喫茶店で十代、二十代働き、お酒は出さないが、ドリンク類、軽食類、飲み物を出していた経験を生かして、淹れ立ての焙煎の、高級な豆から挽いた熱々のコーヒーを淹れてくれて、飲ませて頂いた。お代わりも何杯も飲ませてくれた。それに、出て来る、お菓子やら、私が食事を摂っていない、というと、食事を自ら男の手料理で作って出して下さったり、時には、近所のイオンタウンまで、食事の為に御馳走になった時も何回もあった。数多くの恩恵を、私は彼から、受けて来た。気持ちを、言葉や、モノに託して、私などの、こんないい加減な、お寺では、年端も行かない人間にさえも自分から分かち与えてくれた、その気持ちが、とても私にはうれしかった。
  
 それも、この二人、S楽さんと、Gさんは、両者、血の結束、鉄の結束が強い、二人とも、長年、S楽さんは鉄道会社にその後何十年も定年まで勤め、Gさんは、お役所にこれも、何十年定年まで勤め上げたので、その勤勉さが、二人の結束の理由だと、今の、否、当時から、私は思っていた。

 これは、私には出来ない芸当、真似であり、私などは、職場は、どんなに長くても、数年間で皆、挫折した。作業所が、十年近く通ったのみである。言い訳を言えば、その当時から、就職氷河期の世代が私で、この間の安倍元首相狙撃暗殺事件の山上容疑者宜しく、彼と同じく、ろくな勤め口にも恵まれずに、ただ、「学校は出たけれど」、優秀な学校には在籍していても、ろくにその使い道などは、決してなかった。誰も、自分の事を認めてくれはしなかった。それに加えて、時代のせいにばかりして、自身で何にもそれに対して努力もせずに、自身の怠け癖、怠惰な心、飽きっぽさも更に拍車をかけた。

 S楽さんは言う。「一つの所に、最低でも、十年は居なくちゃ、腰を据えて勤めなくちゃダメだよ。それが人生だよ」と。

 そして、S楽さんはこうも言う。「人生、お金じゃないよ、○○君。幾ら、今、もらえるお金が少ないからって、やけを起こして、辞めたりしたらダメだよ。せっかく、勤めさせて頂いているんだから。有難いんだよ。人生、お金じゃないんだ。働く事に意義があるんだ。お金じゃ決してない。働けば、世の中のお役に立つじゃない。そうやって、人は、人生を切り開き、成長を遂げていくんだよ。人様から、お金を頂く事が、どんなに大変か、大切な事か。今は、○○君も、それを学んでいる最中だ。頑張ってみな!」と。

 こうも言っていた。

 「人は、信頼を築きながら日々を生きている。しかし、信頼なんて、失くすのは一瞬、築き上げた、山のような、大切な信頼は、崩れるのは、自分が裏切った事実により、ほんの一瞬で、露の如くに消え去るものなんだよ、○○君。だから、貴方は、信頼、信用だけは、無くさないように、人生を山登りだと思って、信頼の山を築き上げていって、決して、人様の悪口、人をあしざまに言っちゃダメだよ。わかったかい、○○君」と。

 私は今、泣きながらこれを書いている。元講頭のGさんも、私の高齢の母を心配してくれてばかりいた。私の母が、本も碌に読まずに、施設でテレビばかり見ている、と施設の人から聞いたと愚痴をこぼすと、「テレビの方が、一杯、今では、立派な、分かりやすい、皆が共感できるような番組が沢山やっている。お母さんは、○○君に会えなくても、○○君が、お母さんに施設に入った時に、テレビを記念に買ってあげたのが奏功して、今は、寂しくないと思うよ。私も、昔は、一人、寂しさに打ちひしがれた時もあったけれども、今はテレビのお陰で全然寂しくない。寂しさなんか感じられない程、テレビで生活が充実している。私は、数年前に、白内障の手術で、目が悪くなり、全く活字には縁のない生活になったけれども…。○○君は、ちっとも、ラジオやパソコンのインターネットばっかりで、それだから、世の中の事なんか、ちっともわからないんだ。今朝のニュース見たかい。(私はいいえ、と答える)。あの、岸田の息子を、秘書官に取り立てて、今の首相の岸田は何をやろうとしてるのかねえ。私は、最初は、岸田が首相になったのを応援はしたが、今は、あの人はダメだ。何にも、聞く耳なんて、聞く為のノートを用意してますだなんて、最初の頃言ってのけてたけれども、今じゃあ、財務省のお役人の、言う事だけ、あとは公明党、これら、自分たちの取り巻きの、自分がボスとして、イエスマンの、配下の言い分しか聞いてないんでないの。おかしいわよ、あの人ら、あの政権は。私は、こう見えても、世の中の見る目だけは、確かに養って来た。顔を見ればわかるよ、この人がどんなことを考え、何をしようとしているのか、私の目にはちゃーんと、分かるんだ。私の目は、節穴では、決してないからね!」と。
  
 とにかく、これらお二人には、どう詫びをして行けばいいのかさえ、今の私には手探り状態であり、分からず、S楽さんの言う通り、私の不徳と致す所、この信頼を、元に戻す、また一から出直し、積み上げてゆくのは、至難の業であると痛感している。これは難儀だ、と。

 しかし、自分が蒔いた種である。自分で刈り取らなければなるまい。これが自分に課せられた、一つの義務・責任である。必ず元通りに、修復を、仲直りを、以前の友好状態を、実現、果たさねばならない。

 その自覚、覚悟の下、これからは、私は、お寺、日蓮正宗無量山寿海寺にて、行動、アクションを起こして、実践してゆく他はない。これも何かの、仏道修行、否、自分の場合は、これは、仏罰であろう事である訳ですね。仏法の定理からいっても、自分の招いた原因が、結果として起こって今、居る。

 これを、日蓮正宗独自の仏法の、宿命転換の理法、法門、定石、セオリーにて、何とか、現実を代えてゆきたいと思っている。

 この話は、五年かかるか、十年かかるか、全く見通しが付かない話。でも、私は諦める事は絶対にしない。

 特に、G講頭さんは、聞いた所では、実際、事実上の、私が日蓮正宗に入信した時の、入信・折伏親(この言葉は、日蓮正宗では、天理教か何かの邪教の言葉であり、使ってはいけない、当地の私の菩提寺のお寺の御住職様からそう言い渡されている)折伏主であると聞いた。

 それで良いと思う。私はあの時、初めてお寺でGさんと初対面し、彼女から、最初から、信心の何たるかの実践力、体験を聞いた。日蓮正宗の、初めて自身が遭遇した、初めて会った人、女性が、このGさんであった。私の折伏主はGさん。これでいいと思う。

 私の、そして母の、両者親子共々の、元々の折伏主は、G前々講頭さん以外に外ならぬと。彼女しかいない。私らを救ったのは、正に、Gさんその人、それこそ、そうである。

 私は、彼女からは、いつも電話等々で、折伏の実践論を、体験論、談を教わり、勿体なくも、身に付けさせて頂いて来た。これからも、それにもまして、是非とも、貴女の知恵を拝借、御鞭撻、御指導を受けさせて致させて頂きたい。それは、S楽さんも、全く同じである。彼ら彼女らは、正に、私にとっての、諸天善神、神の成り代わり、神、そのものである。

 「タモリ」さんの、赤塚不二夫さんの葬儀の時の『勧進帳』じゃないが、私はあなたの、立派な「作品」であると。そう、立派なうちのお寺の信徒に、貴女、貴方方からも自他ともに認められ得る、立派な人材に必ず、成長して見せます、と。ここにはっきりとお誓いいたします。あんな立派な信徒に成長したんだと、貴女貴方方に認められ、思われる人材になるべく、必ずや、自身、成長を、実践を、実証を、果たして参ります、お寺の内外に、示し、見せてゆき参ります。 
 
 以上。よしなに。wainai

※追記、編集後記
何も、ここまで、追い込まれ、それら方々にしがみつく必要性は全くないと、この後、後日、思い直した。
今の気持ちは、「捨てる神あれば、拾う神あり」「去る者は追わず来る者は拒まず」のまずは心境である。何も自分を、ここまで追い詰める、根詰める必要は全くない。
これら方々は、元々は、我が家からは市内でも遠い距離に住む方々であり、それら方々よりも、私の地元の、お寺のそばの、土瓜や大槻といった、近場の人達との方が、今は親しみ深い。
何と言っても、皆さん、大槻町湖南町の方々の方が、私に非常に興味を持ってくれて、親しみ深く接して下さる。誠に有難い。人を絞ったり、集中して考えると、碌な事がない。
とにかく、時間だけが解決してくれるから、あっけらかんとして、それを待ちたい。
でも、何とか、何としてでも、あのお二人には、最終的には、和睦、和解、和平へと持ってゆき、今まで通りとは、そう簡単にはいかないのは、警戒をもって、私に接せられることは容易に想像される。これを、以前の仲間意識まで、持ってゆくのが、詰まりは、坂本龍馬の、明治維新の時の前の、薩摩と長州を和解まで持って行った、その竜馬の如くの手腕、それを、竜馬は他人同士を結び付けたのが、簡単、楽、元々、他人事の事だから、成功しようがどうしようが、人任せの所もあったと思う。
私の場合は、その、対立する当事者同士だから、尚の事、難しい。最難関の事を、信用の回復への、難しいかじ取りを、私にできるんだろうか、という不安感の中での、私の見切り発車、船出である。
以上。よしなに。
長文、誠に失礼。


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