Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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アンチ・反・断捨離。捨てるのは諸悪の根源。想い出まで捨てろ、というのか?!

2023年06月26日 13時13分39秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 重ね重ね、長文、心苦しく、誠に失礼致します。 

 私の家で、もう数年、五~七年位前に、福祉関係者が五、六、七名集まり、我が家の、床板を直す前の、前段階として、うちにある、余計な物を、選別して、処分する事になった。
 私達、母子にとっては、想い出が残る、本当に大切な物でも、その人達は、まるで、他人事のように、全て、ゴミだ、と言わんばかりに、本当に選り分けているのか、とこちらが疑問に思う程、非常に雑に、それら、我が家のモノたちが、どうでも良い物のように、扱われ、結局棄てられた。
 私が、それら、五、六、七人の人達が、無造作に捨てているので、そんなに雑に捨てないで、というと、福祉まるごと相談の女性の人が、こういうのは、思い切り、が大切で、情など要らない、バッサバッサと、打ち捨てて行った方がいいんだ、と大声でどやすと、皆、黙々と、その言葉に、従うのみであった。
 私一人は、これは皆、母との、想い出がいっぱい詰まった、宝物の様な、モノたちなので、一人、戦慄を覚えながら、皆を見守るしかなかった。
 そうして、その日の午前中に、それらは終わり、私は、終わりを告げて、皆、家路や職場にそれぞれ帰って行った。
 その後、私は、それらゴミ袋の一つから、丹念に調べ上げてゆくと、何と、我が家の銀行の通帳やら、カード類やら、本、雑誌、他、我が家には重要だと思えるものが多数、その袋の中には、大事な物が多量に含まれていた。その事を、福祉の相談員や、その、総元締めの、福祉まるごと相談の人にも電話にて注意した。
 そうすると、福祉まるごと相談の人は、男の人が出て、申し訳ない、と謝り、福祉相談員は、これまた、謝ったが、そんなに、今日一日で、あれだけの品物を、捨てたのだから、また、○○さん(私)は、無理しないで、そんな、ゴミ漁りは、程々にして、休んだ方がいいですよ、と言った。
 しかし、探せば探す程、今日、その日来た人たちが捨てた我が家の物品が、全て、我が家にとり、貴重品の類ばかりである事に気付き、そんな事を聞いている場合ではない事が、如実の内に判った。 
 しかし、私も、寄る年波には勝てずに、そして、明日がゴミ捨ての日だと知り、その袋、かなりの数を、ろくに点検もしないで、諦めてまるごと捨ててしまった。
 その、ゴミを全て捨てた事を、その時の相談員に言うと「よかったですね」の一言で済まされた。
 後年になり、否、その時にもとっくに気付いてはいたが、母の、大事にしていた、東京浜松町で、母が、自分が仕事をし始めた、初めてのお給料で記念に買った、女性用の、セイコーだかシチズンの、小振りの高価だった腕時計や、母が、継母が支配する、私の祖父、母にとり実家の実の父の家から母の母、詰まり、私のおばあちゃんの家の看護師事務所に家出して逃げ出す時に、その実家から辛うじて持ち出して来た、「そろばん」と「印鑑」も、それら、母にとっては、一番の宝物が、どこをどう探しても、我が家からは全然見つからない。
 絶対に、あの時、母のそれら宝物たちは、皆、ごっそりと、ゴミとして、処分されたのだと思う。
 宗祖日蓮大聖人様の御金言に、たとえ、ゴミの様な袋にまとわれ、おおわれていたとしても、中身が大事であり、中身が、こがね(金)の場合もある、と。これは、まわりの入れ物が尊いのではなく、あくまで中身、こがね、とは、この場合、御本尊様を指す。そういう事を、大聖人様は仰っている。
 あの、我が家に来た福祉関係者達は、その時その場の判断ミスで、我が家の財宝、歴史とも言うべき、我が家にとって、否、母の、大事な宝物にまで手を掛け付けて、今時の、「断捨離」などという、いつそんなのは廃れるのかわからない、そんないっときの他人受けしている、聞こえが良いブームに乗っかって、全てを灰燼(かいじん)に帰した、「宝」を宝と見抜けなかった、張本人達であった。そんな、福祉なんて、いい加減な人間達に、私も、全てを委ねて、任せてしまった、私にも無論、責任がある。
 その後、その件で、針生が丘病院の、老人病棟に(当時)入院していた母に、非常に申し訳なく、全て、母の大事にしているものが、どこを探しても出て来ない、見当たらないんだ、と愚痴をこぼすと、母は、母なりに受け止めて、私がショックを出来るだけ受けないように「いいんだよ、いいんだよ」と老いた母は繰り返し言うのみであり、それ以降、この、私ら、親子、母子は、その場に於いて悲嘆に暮れて黙りこくっているばかりだった。
 この怒りを、どこに差し向けたら良いのか、さっぱりわからない。私の母の宝物たちが、家から忽然と姿を消してから、もう、五、六、七年になる。悔やんでも悔やみきれない。

以上。よしなに。wainai

※編集後記 
 あと、これは、ここ数か年間の事だが、我が家の、母の鏡台の上には、母が使っていた、おサイフがあった。
 これは、私は、千円札一、二枚と、硬貨が、五百円か百円玉かが、何枚か入っているサイフであった。
 これが、この数か年の間に、これも、忽然と、消えた。
 それも、誰かが故意に盗み出さない限り、無くなりっこないのだ。
 こちらとしては、大体、容易に、怪しそうな人、団体、個人にしろ法人にしろ、関係者は、うすうす、察して、判ろうというものだ。
 こちらは、そうやって、個人の、たった数千円の、単位の、モノまで、それら、福祉関係者の餌食にされるんだとの、幻滅感ったらない。信じていたのに。
 だから、もう、本当ならば、我が家に、赤の他人は、本当本来ならば、入れたくはないのが、正直な所なのだ。
 それを、今まで通り、うちの敷居を跨がせていた、泥棒を我が家に平気で上げていた、私が一番悪い。 
 これには、もう亡くなってしまった父親、まだ生きている母に、何と申し上げて良いのか、親不孝な息子で、誠に申し訳有りませんでした、私の管理が行き届かず、悪かったのです、という他はない。
 しかし、それとて、避けようがない事ではないか。元々、盗む方が、盗まれる方より、百倍以上、悪い。
 兎に角、ズルい人間、泥棒については、そういう事が、有り得る、在った事実だけは、こちらとしても、受け止めねばならない。受け止めている最中だ。

 福祉だからって、信用はならないのだ。どんなに甘い言葉で、個人を大事にしているように装われたとしても。それは、飾り立てた、甘言、諂曲(てんごく、こびへつらい)に過ぎないのだ。その一点を、正に見破り、見詰め直す必要がある。

 身の回りの、福祉を疑え、と。

以上。


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