私は本日、今日、うちのお寺菩提寺の、日蓮正宗無量山寿海寺に電話をして、御住職様とお話をしている内に、何となく、自分の心の内の魔、己心の魔、というものに気付いてしまいました。
それは、不信謗法ともいえる、良い事を頑として認めずに、やろうともしない。「懈怠謗法」。これに尽きる。
そうしてからに、答えがもう出て、判っている筈の、古臭くなってしまった問題の答えを、答案用紙の回答欄に、いち早く書こうともしない、怠けていて、答えの書き方も忘れたのか?これも怠け者の、「懈怠謗法」。
それらに加えて、自分の事は差し置いて、人にかずけて、まるでおっかぶせて、自分は一切悪くはない、関知はしないと言う、これは何の謗法なのか、今度勉強しますが、今はとにかく良くは分からないです。判らないけれども、実際、これが「謗法」の一環、一つには確かに当たると自分自身で理解は出来る訳であります。
結局、そんな所を、本日、電話で御住職様への電話での私の語りとなり、自身、反省した訳ですが、その中で、私個人が、家で勤行唱題をやる時には、非情な限界、ハードルが高すぎるんです。一時間勤行唱題、一時間~五時間唱題会なんて、夢のまた夢です。
そこで、今日、御住職様へ、私から、総本山へ行った時のお話として、御年配の高齢女性Iさんが仰られた事を話した。
曰く、「家には魔が一杯あり、いる。これら魔に獲り憑かれたら、とんでもない、信心に支障をきたしてしまう。だから、その為にお寺という有難い場所がある。
ここへ行かないで、なんとしょう、どうして行かない手があろうか?どんな時でも、お寺は、○○さん(私)の味方だから、行って損はないんだよ!お寺に、第一番に行く事だ。お寺はみんな、日蓮正宗の信徒方が、平和に治めて、一番の仏法の勉強の場なんだから、○○さんは勉強好きでしょ?(と軽く私に問いかける)。
だから、お寺に来るのが一番手っ取り早いのです」とこう、Iさんは話を結んだ。
まだ他にも、この間の総本山への旅路の途中にしろ、一緒に弁当等を並べて食事をした時も、Iさんには大変にお世話になりどうしであった。
実は、私が日蓮正宗に入ったばかりで、創価学会の家を訪問し(幹部宅)私が実に間違った折伏(私一人で乗り込んで行った)が、今から六年位前にあった。その時の模様が、当拙著ブログには載っているが、恥ずかしい限り。
その時に、女性信徒で、私に忠告、御諫め下さったのが、このIさんであられた。
その時の自分は、折伏が出来たと酔い痴れて、その相手先から、「おたく、顕正会?」と何度も言われて、私がその度ごとに、「いいえ、違います。私は日蓮正宗、寿海寺の者です」と言っても、あんまり信用されずに、何度も「お宅は、顕正会の人?」とずーとしつこく言われ続けた事実を、後日、お寺でその話以外にも、自分の手柄話・武勇伝の如くに大ごとにして、大きな声で喋りまくりしゃべり募ると、その高齢女性は、こういった。
「そんなのは、そういったものは、日蓮正宗の折伏とは言わない。絶対に。日蓮正宗のやり方とは違う。顕正会に間違われるような折伏は、決して折伏とは言わない。やり方が間違っている。そうは思いませんか?○○さん」
と言われて、少々戸惑い、ガッカリ来たのを覚えて居る。
自分では、生まれて初めての折伏であり、何か、ケンカをして勝ったかのような錯覚すら覚えて、得意満面になり、「自分は勝った」「創価に勝った」と叫んでいたその途端に、極楽浄土で小鬼が、釈尊だか、帝釈天に相まみえたのを恥じて、蓮の影に隠れてしまった故事の如くに、一変に自身が意気消沈してしまった。
そんなに、日蓮正宗の折伏とは難しいのか、との自覚も、段々と、年を重ねるにつれ、判りつつある。
或る方などは、一人の人を折伏するのに、千尋の谷を渡り、むしろ、師子王が、千尋の谷に、我が子を敢えて突き堕とす、そうして、立派に登って来れるのか、親獅子に見守られながら、必死になって崖を登ってゆくような、とか、地獄の、針の山を血だらけになりながら登って行かざるを得ない、非情な困難を伴うんだよ、と、日蓮正宗の或る御先輩からお聞きして、それはそれは大変だ、と思い直した次第です。
それだけ、いい加減には出来ずに、責任を伴うものだとの自覚が大切なんだと思いました。
とにかく、結論になるかどうかは私次第ですが、お寺は私の人生上、欠かせない重要な場所、サンクチュアリ(聖域・聖所)である事。この聖なるお寺を、大事に御守りしてゆきたいと思いました。
それと、その場の皆さんとの、一方通行にならないような、コミュニケーション技術が大切、との自覚が大事である。御住職様の仰られた、「言葉のキャッチボール」がいや増して、重要性を増してきました。
後、この文章自体が長文で、非常に読みづらく、自身でも悲しみに包まれて書いては居るのですが、なるべくならば、人との会話や電話等では、手短に、三分間、一分間の短さをキープ出来るかどうか、にかかる。
要するに、今さっきも言ったように、答えは出ている。御住職様もそれを今日の電話でご指摘為された。答えが判り、知っているのに、答えを出さない者は、卑怯者、不躾者、人非人と謗られ、疎まれてもしょうがない。救われようが無い。と自分でも、思って居ります。判って居ります。考えれば、おのずと答えは出て来る。
そうして、答えに窮した時に、初めて、御住職様なり、先輩の信徒なり、特に講頭さん等々に聴くのは有益な情報である。
しかし、それを丸ごと鵜呑みにせず、一度立ち止まって考えてみる心の余裕、余裕のよっちゃんが必要だ。
以上。ここまでにして、これから、私は、日蓮正宗無量山寿海寺へと、夜の勤行をやりに出かけて参ります。これからの季節、日も段々明るくはなって来てはいますが、薄暮時の為、ここは要注意で、注意を重ねて行って参ります。気を付けて参りますので、皆様、ごきげんよう!!!
以上。よしなに。wainai