Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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短歌教室・歌会。郡山市大槻町ふれあいセンターにて

2023年07月09日 17時09分46秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 短歌の教室、歌会に、本日も、郡山市大槻町、おおつきふれあいセンター(大槻公民館)にて、参加して来た。
 本日も、男性は、生徒は私一人。女性が二人。先生も男性だ。
 最初に、私と先生二人きりの時、先生から、今日は、斎藤茂吉についてやることになり、その時に、茂吉の宗教観、仏教的世界観についてやるのだけれども、私に、その件で、大丈夫ですか?と一応の声掛けというか、問いかけがあり、私も、どんな宗教だって構いませんよ、といい、大丈夫です、と答えた。
 私は以前から、この歌会にて、日蓮正宗信徒を名乗り、語り、をしていたので、その、先生からのご配慮と思われる。
 そうして、斎藤茂吉が、どこの仏教宗派かを聞いたが、特に先生は、どこともわからない、というか、特に、現代人と同じように、宗派は拘らずに、ただ、仏教に関する話がある、と言った。
 
 そうして、先生は、写生・写実主義について、皆が集まった段階で話し、それらは、正岡子規に端を発するものである事。あるものを写す(移す)だけではなく、そこには何があるのか、その中身は?なんなんだ、そこの所を追求するのが、短歌だと。
 二番目に、真実の把握、として、斎藤茂吉が出て来た。茂吉は、ドイツの哲学者・思想家のニーチェの影響、著作を読んで感銘を受けている。ニーチェは、人間とは、何か?どういう生き方をするのが正しいのかを探求した。
 その、斎藤茂吉が、『実相観入』という、言葉を、ニーチェからヒントを得て、考え付く。実相とは、元、仏教用語で、私も、ははあ、ここで、仏教が出て来るんだな、と思い致した。
 そして、実相もそうだが、観入というのは、茂吉の造語で、「観」という言葉にも、仏教的要素があり、観を使った言葉に、「観心」「観念」「止観」「観法」等々の仏教用語を先生は挙げた。ここでいう「観」とは、皆、同じ意味だと。
 「実相」という言葉にも、お経典に「諸法実相」とある、と先生は言い、仏教の中心・中核を為す言葉だと言う。いわば、万物万象なんだと。この、「実相観入」を、斎藤茂吉は、ドイツ語の、「ダス レアーレ」=「現実の相」、と訳し、「実相」なんだと。茂吉の造語の「観入」とは、日本語に訳すと、観照・観相、となるという。
 先生によると、短歌も、一般の文学、文字を使った小説とかと同じであり、そこに独特の世界観があり、どうやって生きるのか?等々の疑問を投げ掛け応えて、短歌の場合、日本古来の歌文化、五七五七七、の三十一文字(みそひともじ)に集約される。
 
 そして、東北を中心に、アララギ派の、一派閥の、「群山(むらやま)」という短歌結社があり、短歌雑誌を現在に至るまで発行し、その、祖の、創始者、宮城は杜の都仙台の、東北大学教授の国文学者、扇畑忠雄(おおぎばたただお)先生は、こう言う。
 「真の写実とは、『在る』ものを基(もと)として『在らざるもの』を創造する。素材としての第一の現実を表現として第二の現実に昇華させること。現実の向こうにあるものをつかむことを認識すべきである。」と。
 
 この短歌の流れは、祖の、正岡子規から、その弟子の、伊藤左千夫に引きつがれ、その他、門弟門下に、島津赤彦、斎藤茂吉、土屋文明ら、他がいて、その、土屋文明を師と仰ぎ、弟子として、扇畑先生が、「アララギ派」の一流派を引き継いでいる。

 それから、先生の、講義の中で、印象に残ったのは、短歌は「単純化」だ、とする事、点。
 短歌は引き算。単純化した中に真実を込め、求める。
 誰が読んでも見てもわかる歌じゃなく、読んだ人が読んだ人なりにわかる。
 詳しく書かないのが、良い歌=感激を共有化できる。
 読む人の心。それが正解。絵画でも写真でも、絵画ならば、ロマン派やら、写実派などがあり、写真も、うしろ、背景をぼかすなど、色々な流派・派閥があった。

 正岡子規に戻るが、子規は、自分以外の歌人には厳しかった。「歌よみにあたふる書」。それは、古来からの歌人は皆、形式にこだわっているから。
 子規の歌、短歌は、皆、全部、必要十分な言葉だけで構成された、歌である。

 瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり 正岡子規

 ここで、皆、思い思いの、この一か月間に、自前で作って来た、歌を披露した。 
 私のは、このブログで一応、既に発表済みだが、形式上、又もや、のっける。
 
 大腸の検査を済ませ大過(たいか)なき結果を示され安堵した我(われ)

 ここでは、先生から、一言あって、しばらく、室内が、しーんと、静まり返り、うーん、という、先生他の皆さんの、唸り声というか、したが、先生は、声を発して、言われた。
 wainaiさんは、口語体でやりたい、いきたいの?それとも、文語体?との、例の質問である。
 私は、それに、今も、悩んでいる最中であり、先日、と言っても大部前だが、俵万智さんの「サラダ記念日」を読んで、私は、現代短歌にも興味はありますが、万葉集や、古今和歌集、新古今和歌集にも、興味が在ります。ですから、どっちかと言えば、文語体なのか?…。わかりません!と言った。
 すると先生は、一応、「群山」としては、文語体が基本であり、勿論、口語体でやっている方もいるが、少数であり、基本はやはり、文語体だと。

 そこで、先生に、文語体で、手直ししてもらうと、次のようになった。
 
 大腸の検査の済みて大過なき結果を示さるれば安堵しにけり

 のようになり、少し、字余り、の感が出てしまう、が文語体の為せる業。

 又、「我」を取っ払われた。

 口語体ならば、この歌の通り、直す所は、無いでしょう、と仰られた。

 それ以前にも、私が、皆が、唸っている最中、それからその後、私として、この短歌に、何か、ひとひねり、何とか、改造を試みた方が良いかも知れぬ、というと、先生は、ひねらない方が良い、短歌はストレートに表すのが、信条だ、良いのだ、と言う。土屋文明も、難しい言葉を使うならば、口語体の方が良いと、向いていると語っていた、と仰る。

 その後も、色々な、歌を鑑賞して、時折、古文の文法の作法を、これは、高校時代の国語の時間にやったな、という感覚で、少しむつかしい感じも持ったが、やれない事もない、慣れれば楽勝、と、妙に、澄ました顔で、ノートにそれら、先生の講義をメモし、ノートを取った。

 今日一日で、かなりの、お勉強になった、自身の力試し、教養を身につけ、為になったなあ、との思い深く、時間は遥かにオーバー気味だったが、先生、生徒の皆さんとの、最後の会話も楽しく、挨拶がてら、教室内の、整理整頓、片付けるものは片づけ、その場を後にした。

以上。よしなに。wainai


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