織田裕二著「脱線者」という本を読んでいたら、こんな表現が出て来た。
子供には、死の教育が大事だ。だから、生き物を、実際に、虫でも何でも、実際にぶっつぶしてでも、目の前で殺して見せて、それで、命の授業をやれ、というものだった。
これは、精神的に弱い者たち、いわゆるPTSD、心的外傷後ストレス障害、になって、その、生物を痛めつけたものを見たショックで、ショック死せんばかりの、その、トラウマ、生命の精神の危機については、何一つこの本では書かれては居らず、これはまやかし本、気取った、自分の内面と外面とを、ただ飾り立てた、カッコつけ人間の本だとすぐ判り、断定し、即刻、読むのを止めた。
うちの母は、子供の時、東京に家族六人親子で住んでいて、うちで飼っていた、チャボだか、名古屋コーチンだかの、ニワトリが居て、一緒に庭で佇み、遊ぶというか、慣れ合ったりしていた。が、ある日突然、そのニワトリが、屠殺されて、食卓に上がって来た。
もう、戦中戦後の事であり、食糧難の時代にあり、そういった、肉、このニワトリの肉は、当時は貴重なタンパク源ではあったのであろう。
しかし、頑固な母は、おそらく、両親に対して、可哀想だ、とか、殺すなんて酷い、とかの、今から考えると、子供なりに、何て理不尽な、生き物を殺す、しかも、今まで友達のように、庭先でコッコ、コッコ、と鳴いていたニワトリを無碍に殺す親たちの無惨な所業を、いつまでも、呪うようにその場に佇んでいたのであろう母。生命軽視に対する憎悪、自己の命の感性への危機。
そして、その食卓では、姉二人、弟一人、親夫婦二人の、計五人の家族は、その凄惨な食卓を、満足にそのニワトリの肉を難なく食べ、平らげた。余り、気分のいいものでもなかったとも思うが。
けれども、母一人だけは違った。母は、最後まで、泣きながら、自分は絶対に食べない、と皆の前で宣言主張し、実際、その日は、そのニワトリの肉には全く手を付けなかった。絶対に、殺生を、自分の目の前、自分がましてや、飼っていた、愛着の或る動物、この場合、鳥の、ニワトリには、そんな目に遭わせたくはなかった、と言う、母の、絶対の動物愛護精神、命の守護者としての、祈りの様なものが、その時きっとあったんだろう。
そういう、物事に対して、潔癖症の人、万物の生命愛護の気持ちを持つ人は、稀ではあるが、この世には居るものなのである。
それらが、後の、神奈川県川崎市から福島県郡山市に我が家が越してきて、その時、小鳥屋・ペット屋を始める。その時の、動物への慈しみ、慈悲、かわいがることが出来なければ、あれだけの動物、鳥たちを、世話し、もてなし、売り出す事なんて出来ない。
母は、死にそうになった小鳥などには、鳥小屋から直接、我が家に持ち帰り、一日中、夜も寝る寸暇をも惜しんで、夜も徹夜で、小鳥に付きっ切りで、小鳥たちのエサやり、看病をして、皆、生き返らせ、又、一軍で、小鳥屋のプレハブに並ぶ為に旅立っていった。
うちに来ているヘルパーさんで、その旦那さんで、やはり、ニワトリの屠殺を子供の頃見てしまい、もう二度と、鶏肉は食べない、と決めて、金輪際、ニワトリを食べない人も居る。
私は、母に、全面的に賛成する。同意し、味方をする。それが、親孝行、親子の孝養、義理人情、仁義の確立の端緒である。
私もそうした母の血を受け継いでか、こんな事があった。福島県立安積高校第一学年最後の、春三月、春休み前の、皆が楽しみにしていた、大視聴覚室での、ビデオ映写会があった。
この時、私はそいつら、成績だけは、常に百番以内であり、クラス委員長の、K村委員長が、男性学級担任教師、K井両者二人の会話を、私は聞き逃さなかった。一生、私は、恨みに思う。
K村「先生、僕、コワいビデオがいいから、その、怖い、恐怖映画をレンタルして来ます」というと、担任K井「そうか、そうか、よし、いいぞ、頑張ってやれ、お前の好きなようにしていいぞ!!どんどんやれ!!」と言ってはっぱをかけ、二人だけの密約みたいな会話だった。
そして、その日、何日後、見せられたビデオ映画映像は、動物虐待シーン満載の、残虐ホラー映画。実際に生き物を、これでもか、これでもか、といたぶり、虐め、虐殺する、非常に残酷極まる、映画であった。
私など、気が弱く、うちでは、当時からペット屋を営んでいた関係から、そういった、動物虐待映画は、極めて、見たくもなく、身の毛もよだつ、大嫌いな映画の部類である。
要するに、このK井は、頭の良い、成績のいい生徒には、何を言っても、頭が上がらない訳だ。だから、その頃、私が、社会科、国語科、保健体育科、美術科、理科のうちの生物他そういった教科は抜群に人よりも秀でていたが、それら以外の、英数などが、成績の低迷中の私などには、声も掛けぬ、一切が無視の、冷たい、冷酷無慙な教師が、この、元高校教師、人非人・K井の生態、実体、私などは、大分、この大バカ教師の、大被害、大損失、大悪業、大損害の、大弊害、大悪影響をいまだに、精神にも、この身全身で受け止め、悲惨な目に遭ってい続けているのである。正に、今の言葉で言う、大「トラウマ」だ。
その他、嫌な事、私がこの、こやつ、K井から受けた酷い仕打ちは、筆舌に尽くしがたい程、山ほど、沢山ある。こいつを、K井を、私は、生涯、一生、許さず、必ず、仕返しし、仕留めて見せて、恨みを晴らす。必ず、自身で、裁き、天誅を下す。
今の、この、私のそこいらじゅう病だらけの、このズタボロの、精神と心と体になってしまった、その根源が、即ち、全て、この男、大醜悪な大悪党、人間性の、正に、大仏敵、大疫病神、大怨敵、大仇敵、それが即ち、K井、この男に他ならない。
だから、今でも、未だに、手ぐすね引いて、何とか、恨みを返せないか、と、非常に、私は危機感・危機意識を日々以て、この一、元教師の、こいつ、K井が、悲惨な非情な苦しみ狂った非業の最期を必ずや迎え遂げる事を望み、願って居る。死相も、最悪であって、最凶の、堕地獄の末路を辿ってもらいたい。お前は、死後、一生、地獄で居ろ、過ごしてろ!!!
それが、今、私が元、安高生徒としての、悲願、大願、決意、一大決心なのである。
ーーーーー『このバカ者、無礼者めが、K井め、以前は私が高校弟子生徒、其方(そなた)が我が高等学校の教師師匠であったが、其方(そなた)の教育上の、成して来た所業の全て、無慈悲の極みに、こちらの精神は朽ち病み滅んだ、其方の全責任を、私が負ったこの現今の悲しみ怒り、憂い、苦しみ、悲嘆、絶望の全てを、今、この全魂の恨みつらみを、必ずや、天地万物天上天下に誓い、成らぬものは成らぬ、成るものは成る、それが必定の定理、条理、摂理、であり、我が、御祈念を必死で致し、この大願成就を見事、果たし、絶対に此方(こちら)はめげず、負けずに、必ずや勝つ、其方(そなた)に我が人生の上でも、大功力(くりき)の上でも、一切法、世間法上・仏法上も、必ずそなたに勝つ、御成敗を其方に必ずや成し遂げ、致さん!!!お前には、大堕地獄行で、あの世、来世・未来世でもって、存分・充分の苦しみ、大呻吟、大苦悩感を味わってもらう。それが、釈迦仏法・日蓮大仏法の奥義だ。首を洗って出直して待って居ろ、この鬼畜・極悪ゴミ屑芥(ちりあくた)誤魔化し貧窮下賤(びんぐげせん)人間めが!!!!!!!!!!仏法仏教上の「師弟不二」などは、あの頃の、高校教師くんだりのお前なんぞとは、そもそも、成り立ちなどはしなかったんだよ!!!!!学校生徒差別主義者の無頼派気取りの見下げた、糞だらしない、法を下げに下げた、お前なんかとはな!!!始めっから、俺とお前は、ちげえんだよ、格が違い過ぎんだよ、こちらのが上なんだよ、生まれも育ちも、この貧窮下賤の、タコめが』
結局、この学校を、私の第一学年の担任が、そのまま第二学年になってもクラス替えがあったんだが、クラス担任が持ち上がり、同じままの、私の大嫌いな文学崩れのダラシナイ教師が私だけを新たなクラスに於いて担当するままの事態になり、またその、私一人が、大嫌いな教師K井が私の担任となってしまった。
私はその学年の年の、京都・奈良・大阪の、関西方面の修学旅行には非常に楽しみにしていたので、ちゃっかり、ちゃんと付いて行って学年皆と旅行体験したが、それまでは真面目に毎日毎日登校したが、丁度冬の、それ以後以降は音無しで、休みがちとなり、その教師が大嫌いで恨み、心底から憎んだ関係で、その学校を途中でついに転校した。
その教師を恨み根に持ち、憎んだ挙句の、行動だった。本当は、そいつを、自身、こうなっては成らぬ、こういう人間には気を付けようという、反面教師にして、自分に危害を加えられぬよう、立ち回った方が、この場合自分の人生上、実に本当は、得策、利口だった。それがまさしく、儒教・論語・孔子の言う、「大人、君子の対応」であったのだが。
私も破天荒、大胆不敵、「一度決めたら、二度とは代えぬ」という、昭和の大スター、昭和歌謡演歌の、歌姫・美空ひばりの「人生一路」の、まるで歌の一節のまま、そのままの生き方である。
母と同じく、私もかなりの頑固者である。すぐ意地を張り、意固地になる。それにより、人生失敗してしまったが。人生幾つでも取り返せる、と思いつつ、この年まで来てしまったが。
もっと、柔軟性、臨機応変さ、フレキシブルに対応が、人生に於いて、理を悟り、利する、利を見抜く、どっちも、理論理屈も利益利便も、両者合わせ飲み、清濁併せ吞む、人を包み込む、度量の大きさ、それを「事実上の、リアルな、現実主義の体験性」に於いて、統合し、確立する、と言う人生観を持ちたい。もっと、豪放磊落、豪奢であり、豪華絢爛の人生、を、送りたい。それが、日蓮正宗で説く所の、「事の一念三千」、に他ならないのである。
「花の色は移りにけりな、いたづらに、わが身世にふる、ながめせし間に」(歌人・小野小町・出典:古今・春下「百人一首」)、この歌が、今、一瞬、ふと思い、頭をよぎった。
この歌は、小野小町が、人生の短さ、自分の容姿が、あれだけ立派な、世界三大美人にもなぞらえられる程の、美人であったものが、今の身の、現在、雨が降っている間に、桜の花の色は朽ち果て色あせ、恋にうつつを抜かしている内に、容色も衰え、老人と化した、自身の情けなさ、不甲斐なさを歌ったものだ。これを詠む度に、何か悲しくなる。人、人間の栄枯盛衰なんて、たかが知れていると。
結局、仏教仏法の、無常観、窮めて虚しい、常ならざるもの、「無常」を感じざるを得ない。人の生き死に、生と死との間は、ほんの、一瞬の、紙一重の差にしか過ぎないのだと。
結局、三年まで来てすぐ高卒資格を取れ、そのままいれば卒業できたのに、わざわざ青山学院高等部を三年生三学期の時、何故か中途退学して見せたシンガーソングライター「尾崎豊」とは少し違うが、傾向としては、同じような、私は回り道をやっている。
私は学校には苦労をして、何とか高校は、卒業できたが。
閑話休題。
話は代わり、動物の話に戻す。これらの話は、幾ら畜生と言えども、動物にも心も体も魂も、すべてが具わり、オマケに、今日、我ら日蓮正宗信徒たちが毎日毎週の如くに、教わっているのは、十界互具、全てのもの、生きとし生けるもの全て、物から生き物、人間界だけじゃなくて、畜生界の動物類、それらこの二つの世界は、十界の中でも、目に見える世界の代表なんだが、それらのうちにも、必ず、「仏界」「仏性」が宿り、存する、という、これが絶対の、日蓮正宗の開祖、宗祖日蓮大聖人が言うんだから、これは間違いがない。全く、全然、間違いがない。
これを、織田裕二の本では、バッタでも何でもいい、その虫、生き物を、握りつぶして、その時汁が出ようが何しようが、そういう、醜い姿が、「死」である事を、幼少の時から、良く子供らに教えておくべきだ、とか抜かしやがった。
てめえはいいだろ。高みの見物でよお。殺される生き物の身にもなってみろや。そういうのを、余計な・ムダな死、と言う。
そらあ、てめえも、生き物は再生、生まれ変わりなど出来ない、再生不可能を見せつけてあげて、等と言っていて、生まれ変わりも、死後の世界も、自分、織田は、信じない、信じはしないとのたまう。誤った人生観、死生観を持って居る、この男は!!
馬鹿言ってんじゃないよ。どこの誰が、お前の様な体たらくの、それは、映画俳優、テレビ俳優で、名を知られ、名を売ったのは、実際、事実だろう。
しかし、それだけ、その、俳優業で名を成したのが、私から言わせれば関の山で、それは、人生の一里塚に過ぎず、それが、まだ人生途中途上の、中途半端な危なっかしい男が、人生の教師役、何か高名な師匠のような振りをして、説教まがいの事をやっている。
何にも、それは、自殺にてめえ自身の危機を乗り越えて、今日まで来たのは、理由のある事だとは、思える。
しかし、その、この本を書いた時が、実際何歳かは知らねえが、どうも青臭さが残る。
こんな、青二才の様な、その時の若造風の、このあんちゃん、どうみても、自身の成功に酔いしれて、この先も主役張って、頑張って、とか抜かして、その後は、さて、どうするか、とか、もう、どうにでもしろっていう話。
そういう、生命論、命の話は、御本仏宗祖日蓮大聖人様が、鎌倉時代、弘安二年十月十二日に御建立為さった、日蓮正宗総本山富士大石寺に実際にある、三大秘法の戒壇の大御本尊様に日頃から御目通りしている、そこで実際に修行を何年も、十年単位で、子供の、所化小僧さんの時から、大人になるまで修行をする、『日蓮正宗』に任せなさい。
生命、命の話ならば、私共、特に御僧侶方、御住職様がお相手し、御相談に承り、乗りますよ、と言っている。
何も、そんな、自殺まがいの事を一回考え、ホントに実行したのかは判らない、その織田某などに、命の話を頼らなくっても、事足り、ホントに、うちは要らないですから、結構です、と言いたい位の本であり、途中で読まずに、打ち棄てた。
この本は、元の値段が,今は無き、ブックオフ郡山新さくら通り店で五十円と、そんな値段、割安、安すぎるのは、どうやら理由のある事なんだな、とはっきりと判る風体の、代物、本と言うには安っぽい言説の、ものであった。読んで誠に損した。おしまい。
※追記
死とは、別れの儀式である。別れ際は誰もが美しくありたい。
その疑似体験をしたいならば、例えば、音楽の、別離の歌、別れの歌などを聴くだけでも、大分、別れの気持ち、死者への餞別の気持ちが起こり、その準備の練習にもなり、死者を思いやる気持ちが起こるであろう。
何も、実際に、生き物を殺傷する、痛めつける、そんな気持ち悪く、生命の断絶を、悲鳴を、叫びを、自分や、その親兄弟友達他、親しい人々、ましてや自分の愛する子供には聴かせ,体験させたくは全く無いと人の親ならば必ずや思う筈だろう。教育上も非常に悪い。
それが人の心、人情というものだ。我々は、心の中で、自然と、何が悪で、何が善かの、分別、峻別、道徳上のけじめが、自然とできるものである。命を殺生しちゃあ、いけないよ!と、自分のおばあちゃん等祖父母、親などに、習わなかっただろうか?
それが判らないから、今、殺人事件、凶悪事件等々が、ひっきりなしに起こっているのである。全ての元凶は、この生命の尊厳への無視、命の尊さへの無理解。これは、大仏法仏教哲学を一度でも、勉強、修学、習得しなければ判らぬ。
どうやって聴くか、只、聴くだけである。それも、『日蓮正宗』という、宗祖日蓮大聖人様の説く御教えでなけらば絶対にならぬ。
それらのうちの、総本山富士大石寺か、その末寺の御住職様に、直接、指示を仰ぎ、ご質問等々も随時、受け付けて居るから、その為に、お寺に出向くなり、お電話等々を差し上げるなり、何なり、それは個人の自由な裁量に任されて居る。ご自分の悩みを、困りごとを、真っ先に、それら御宗門、各寺院に、ぶっつけ、聞いてみて、話し頂く事である。
これだけは、口を酸っぱくして、語って置く。
それ以外の宗教宗派は、外道宗教、爾前権教の既成仏教教団の類の、偽物の教えである。
占いなんてのは以ての外、外道キリスト・イスラムなんてのに至ったならば、痛切にその過ち、間違い、下らなさ幼稚臭さに憐れみ、同情を致す他、以外ない。よーくそんな下衆な下等宗教、外道宗教、やってられんな、と!!!
本当本来の、『御本仏宗祖日蓮大聖人様』の、伝統の、血脈相承、法水写瓶、法灯連綿たる、一大仏教教団、大仏法大仏教哲学は、この宗派の、「日蓮正宗総本山富士大石寺」にある、大聖人様御建立の、『三大秘法の本門戒壇の大御本尊様』を拝む以外、有り得ない。これが、根本、全てなんです。歓びへの、第一歩が、この『大御本尊様』なんです。これが、我らの、最大悲願、最大達成、大願成就への、一里塚です。
これが判れば、十中八九の、悩みが解決し、問題の多くが、解決が図られる。そう、信じ、信じ切り、信じ抜く。
頭が砕けんばかりに、その、御本尊様に勤行唱題、お題目を何時間でも唱え続けて、その後、自行が終わり、化他行、折伏弘教に励み、自分だけの喜びに留めずに、人様への勧め、喜びへの一助としての布教、人様への喜びへと繋げてゆき、自分が東奔西走して走りに走り、幸せになって頂く。
これを、これこそが、『自行化他』『事の一念三千』の大仏教哲学、という。
実際に、行って、人様の前に現れ、自分自身で行い、それを他の人々に、リアルに実感、見せつけねばならぬ。
自分の生きかた、生そのものが、折伏弘教,事の一念三千の姿そのもので有らねば、誠にならぬ。
これは、大聖人様も、自身がお手本となって居り、散々ぱら、御書の中でも御説き遊ばされ、特に、鎌倉時代、鎌倉市中に於ける、鎌倉、ひいては、日本全国民に向け、語った、大聖人様独自で編み出し、考え抜かれた末での日本人向けの布教方法手法。
当時の、街道、通りの、道の片隅に立ち、御本仏、当時御僧侶の御立場から、大きな声で真実の声を仏法の極理・極説を一般民衆、当時の鎌倉の民衆に向け解りやすい嚙み砕いた御言葉で御諭(さと)しし、優しく語りかける、『辻説法』などは、その典型である。
『自行化他』が、幸せになる、鉄則、極理、極説、極上の、料理で言う所の、スパイス、御馳走、である。
これに血眼になって取り組めば、そこらそんじょの病気、経済苦、困難困苦、罰が出た、うつ病、ガン、他、難病、他、それこそ多数の悩み苦しみを、この信心で乗り越えて行った来た者、大多数に上る。この宗派『日蓮正宗』にはこれらそれらが多数、居る。
これは、この宗教宗門法門の、大御利益、大功徳に外ならず、皆、この宗教教団に属し、信ずる者たちは、毎日この恩恵に浴し、日々、安楽安泰安寧安全安心に過ごす事が、約束されたようなものである。毎日が、只、幸せ、の一言に尽きるのである。
それが、皆さんの極めて身近な、この大日本国の、駿河の国、東海地方の静岡県富士宮市上条の、富士山の麓、駿河湾を望む、絶景かなの霊地景勝地にあるんだから、行かないでどうすんだ、と言う話。
同じ日本人として、それが、全く目を背け、日蓮正宗総本山にも末寺にも、全く行きもしない、知らないだか何だか、無知の極みが為せる業(わざ)か。
仮に、知ってても、無視し続けている。そう言う、そんな寺が、或るんだなあ、程度。
正に、不信謗法。信じないのも、知らなかったのも、罪、同罪、謗法と言う、怖ろしい罪作りなんですよ、日本国中の皆様。それから、世界広布も、これからの時代、睨まなければならぬ。世界からも、押し寄せて来ているんですよ。その方々に比べたら、如何に我々が、いい地位にあり、いいロケーションにあり、極めて恵まれて居るか、あなた方には、判らないのですか???!!!!
そんな事をして、何故に、何で、どうして、勿体無くはないのかと、これは個人的な疑問・感想・感慨である。
又又、脱線してしまった。
話しを、子供らの心の話に戻すが、それでは、感性の豊か過ぎる子供は、パニックを起こし、将来の精神、心に禍根を残し、PTSDに一生苛(さいな)まれる事も充分有り得る。
この織田某が、今は妻帯者で、子どもが居るのかは、私は全然知らず、こぶつき、子供も居るのかも、全く知らない。
恐らく、居たとしても、自分よがりの、恐らくこれも、DVドメスティックバイオレンスだらけの、ろくな教育しか行っていない事は、火を見るより明らかであろう。
自業自得の人生、この芸能界で成功を遂げ、勢いに任せて来たが、人生の挫折・辛酸にも、もう二度も三度も押し寄せ、経験体験し、そこから果たして又もや立ち直れるのかどうか。
今は、その時は、若さ、青臭さで乗り切ってたみたいだが?
人生、にっちもさっちもいかなくなって、又、最期は、自殺?
それ相応の人生しか、この男、織田裕二某には残り、待ってないんではないのか?後生畏(おそ)るべし!そう断罪するより、他には全く無い。
実に情けない、自身を飾り立て、カッコ付けただけの、正に腐った本としかいいようのない本であった。時間のムダ!!!!!!
※編集後記
こちらに、私のこれら、学生時代の嫌がらせ行為を、クラス担任に受けたとする、最初期の記事がありますので、良ければご参照ください。
以上。よしなに。wainai
尚、後出しジャンケンとなるが、このブログ記事を書いた翌年、2023年三月のヤフーニュースの記事で、こんな記事があるので、転載する。
残虐動画、規制求める声も 「エスカレートした」と少年 教員切り付け、8日で1週間
3/8(水) 7:08配信
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男性教員が切り付けられる事件が発生した中学校の敷地内を歩く捜査員ら=1日、埼玉県戸田市
埼玉県戸田市の市立中学校に高校生の少年(17)が刃物を持って侵入し、男性教員を切り付けた事件から8日で1週間。 【図解】猫の死骸が見つかった場所 県警に殺人未遂容疑で逮捕された少年は、先月猫の死骸が相次いで見つかった事件への関与をほのめかしているほか、残虐な内容の動画を見ているうちにエスカレートしたとの趣旨の供述をしている。インターネット上では、動物虐待などの残虐な動画が後を絶たず、規制を求める声も上がっている。 動物虐待動画規制法の制定に向けてクラウドファンディングなどに取り組む井上貴弘さん(56)は、猫13匹を虐待して動画共有サイトに投稿していた税理士の男が逮捕された事件をきっかけに活動を始めた。「たかが動物虐待の動画だと考えられているが、社会に与える影響は大きい」と指摘する。 井上さんによると、悪意を持った人がSNSに投稿した虐待動画を意図せず見てしまい、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などになる人もいるという。「動画を規制する法律を作ることが、動物のみならず社会のためにもなる」と訴える。 東洋大の桐生正幸教授(犯罪心理学)は、動物への攻撃性が人間に向いてしまうケースはまれだとしつつ、「そうした人は幼少期に虐待を受けるなど精神的な苦痛を抱えており、ストレスを解消するために動物の虐待などゆがんだ方法を選択してしまう。そうした衝動が激しくなり、抑えきれなくなった結果、対象が人間に向かうのだろう」と分析する。 その上で、子どもが残虐な動画などに触れないよう、親が子どもに声を掛けてフォローする必要があると指摘。教職員や保護者による見回り活動などを通じて地域の防犯意識を高め、学校そのものの防犯対策も見直すべきだと話した。
(以上。引用、私により、終わる。2023年令和五年、三月八日水曜日のヤフー記事による。)