おでかけたいむす

名所・旧跡・B級スポット、釣行記までおでかけ情報を現地取材した情報を写真入りで紹介。

西伊豆の海と富士山を見る 「仁科峠展望台(静岡県西伊豆町)」

2009-12-25 22:01:55 | ハイキング
仁科峠

西伊豆スカイラインの南端にある仁科峠、眺望の良い峠ですが展望台まで登ると、もっと良い眺めを見ることが出来ます。

仁科峠展望台

峠の駐車場からクマ笹の茂るなだらかな道をちょっと登るだけです。頂上にはベンチと大きな岩がありました。

展望台から駿河湾を見る

西の方角には駿河湾が広がっており、対岸は清水港かな? 手前の入り江は宇久須の港でしょうか。

展望台から富士山を見る

北の方角には富士山を見ることができます。富士山にかかる雲が切れるのをかなり待っていましたが、寒さに耐え切れず断念。

天城峠へ続く道

東の方角は天城の山々。この展望台は伊豆山稜線歩道の一部になっており、ここから天城峠までの道が続いています。

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働き者のお菊さん 「おきくばあさんの碑(静岡県富士市)」

2009-12-23 23:32:03 | 史跡
おきくばあさんの碑

富士市の比奈にある昭和幼稚園の片隅に「おきくばあさんの碑」があり、こんな昔話が伝わっています。

昔、比奈にお菊さんという働き者のおばあさんが住んでいました。お菊さんは若い頃はたいそう遊び好きで毎日毎日遊んでばかりいましたが、死んだ父親の夢を見て、「これからは人一倍働いて、世の中のためになろう」と改心しました。
そうして、百姓の手助けをして村人が驚くほど働き一町六反の田んぼを持つまでになりました。

おきくばあさんの碑

その日も朝早くから田植えをして、もう少しで終わるという頃に日が西の山に沈みかかって暗くなろうとした。そこでお菊さんは「ああ、おてんとう様がもうすこし戻ってくれたら田植えが終わるのになぁ」とつぶやくと、不思議なことに沈みかかった夕日が高く上がりお菊さんは田植えを終えることができました。

「ありがたや、ありがたや」と腰を伸ばしたところ、そのまま倒れて息を引き取ってしまいました。それから、このあたりを一町六反と呼ぶようになり、お菊さんの塚が建てられました。

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達磨山高原からの絶景 「金冠山(静岡県沼津市)」

2009-12-22 21:08:48 | ハイキング
西伊豆スカイラインの達磨山周辺は達磨山高原と呼ばれ、駿河湾を見下ろし、富士山の眺望も良い場所です。その中でも金冠山は絶景が見られるポイントとして人気がある山で、簡単に登れることができます。

戸田峠からの入り口

虹の郷からのハイキングコースや沼津市民の森からのコースなどがありますが、楽をして登りたい人は戸田峠から。
戸田峠駐車場の北側にあるトンネル脇にハイキングコースの入り口があります。

山頂から

しばらくコンクリ舗装の道を登ると虹の郷からのコースと合流します。合流地点から400メートルで山頂につきます。
山頂は周りをさえぎる物がないので、ぐるっと大パノラマの絶景。遠くは御前崎や南アルプスも望むことができます。

金冠山からの富士山

そして、富士山もきれいに見えます。

富士山と駿河湾

富士山の手前には奥駿河湾が、湾を囲むように沼津アルプスが連なってるのがよくわかります。

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新選組副長の墓 「土方歳三の墓所(東京都日野市)」

2009-12-21 21:16:19 | 史跡
石田寺

新選組の副長・土方歳三義豊は武州石田村(現・東京都日野市)の生まれで、実家は広い田畑を持つ大百姓でした。出身地である日野市の石田寺に土方歳三の墓がある。

土方歳三の墓

青年時代は家業である農業と薬の製造販売を手伝いながら天然理心流の剣を学び、近藤勇や沖田総司とはこの頃に知り合いなる。

墓誌

新選組が結成されると副長として京都治安警護維持にあたります。大政奉還され鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争と幕府軍として参戦しますが明治2年(1869年)に函館にて戦死します。実際に埋葬された場所は函館の五稜郭とも言われるが不明でこの石田寺は墓石だけが建てられているようです。

この近くには土方歳三資料館もある。

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旧三菱財閥の屋敷、実は・・・ 「木村屋敷(静岡県河津町)」

2009-12-20 19:56:07 | 歴史建築物
木村屋敷

河津町に木村屋敷と呼ばれる古い建物があります。この屋敷は和洋折衷建築の本館と和風の茶室からなる建物からなり、敷地の面積は3千坪。庭は回遊式の庭園になっています。
旧三菱財閥の木村久寿弥太氏の隠れ家として昭和初期に建てられたそうなのですが、管理人さんから意外な話を聞くことができました。

食堂

本館の1階は洋風の応接間と食堂、現在は見学者の喫茶スペースとして使われています。(カフェメニューもあるので喫茶だけでも可能です)
床には箱根の寄木細工が張られ、暖炉は温泉を使ったオンドルです。
建物を裏から見るとよくわかるのですが、欧風の山荘をモチーフにして設計されています。

特別な瓦

洋風ですが、屋根は瓦葺き。しかも普通の瓦ではなく高価な磁器を使っています。何でも月明かりを良く反射して夜はすごく綺麗だとか。

寝室

二階は寝室などの居住区で和風造り、使用されている木材は今では手に入れるのが難しい高級材だそうです。ここで、天井から下がっている電球の笠に注目、笠に描かれた模様は菊。そうです、実はこの建物は皇族を迎えるために作られた別邸。
管理人さんの話によると、天城の山(昔は天皇家の直轄地だった)で金鉱開発を行うために、皇族と関係が深かった旧三菱財閥が用意した別邸では? とのことです。

茶室

付嘱の茶室は高貴な方を迎えていた特徴が良くわかります。普通の茶室には躙口(にじりぐち)と呼ばれる小さな潜り戸があるのですが、ここでは大きな玄関になっています。これは皇族方に頭を下げさせるのは失礼だと考え、このような造りにしたそうです。

立礼式茶室

主に海外からの賓客に接するため、椅子席の部屋も作られています。壁はモルタルのようなのですが、何と金箔が一緒に塗りこめられています!

茶室は使用している材料こそ高価ですが、造り自体は質素で落ち着けるくつろぎのの間を意識して設計されています。

庭

庭園には滝も作られています(当時は2本あったようです) 名のある庭師が設計したようですが詳細はわからないそうです。

色々謎が多い屋敷で管理人さんも調べているそうなので、この後新たな発見があるかもしれませんね。

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