紅茶からコーヒーへ-独立前後の北米の食の革命(11)
アメリカ合衆国でお酒以外の飲み物と言えばコーヒーとコーラです。一方、イギリスの代表的な飲み物と言えば紅茶になります。
イギリスの植民地だったアメリカ合衆国では最初は紅茶の方がずっと多く飲まれていました。それが、時代が進むにつれてコーヒーの方がよく飲まれるようになります。
今回はアメリカ合衆国でコーヒーがよく飲まれるようになったいきさつについて見て行きます。
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北アメリカにおける最初のイギリス植民地であるバージニアは、ジョン・スミス船長(1581~1631年)によって1607年に建設された。彼はオスマン帝国を訪れたことがあり、そこでコーヒーに出会い、その虜になったという。そしてバージニアでも入植者たちにコーヒーを勧めたが、広く飲まれるようにはならなかった。イギリスから移ってきた彼らには紅茶の方が良かったからだ。
その後、1668年にニューヨークでコーヒー豆を焙煎し、蜂蜜とシナモンで味付けした飲み物が登場した記録が残っている。1700年代半ばになると、酒場がコーヒーハウスを兼ねることが多くなったが、飲み物は紅茶が主流であった。その頃のコーヒーは高価で、裕福な人だけが飲むものと考えられていたからだ。
しかし、1773年に起きたボストン茶会事件のように、イギリス本国が植民地に課した税金に反発する運動が高まるにつれて、イギリスの文化を否定する動きが強まって行った。その結果、紅茶に代わってコーヒーが少しずつ飲まれるようになって行ったのである。
初代大統領ジョージ・ワシントンはコーヒー豆の貿易を行い、その妻のマーサはコーヒーの淹れ方を研究したという。また、第3代大統領のトーマス・ジェファーソンは、友人に宛てた手紙の中で「コーヒーは『文明世界の飲み物』になるだろう」と発言したことでも知られている。
紅茶からコーヒーへの移行を決定づけたのが1812年から1814年まで続いた米英戦争だ。この戦争は19世紀初頭にナポレオンが一時期ヨーロッパの大半を征服したナポレオン戦争に端を発する。この時フランスと戦ったイギリスは海上封鎖を行い、フランスを始めとするヨーロッパ諸国の貿易を制限した。その結果、アメリカ・ヨーロッパ間の貿易も停止することになり、これに反発してアメリカがイギリスに宣戦を布告したのだ。
この米英戦争によってイギリスからの紅茶の輸入が滞ることになったのだが、ちょうどその頃、ポルトガル植民地のブラジルでは本格的なコーヒーの生産が始まっていた。アメリカは比較的近くから紅茶の代わりのコーヒーを手に入れることができたため、急速にアメリカ国内にコーヒーが広がって行くことになるのである。
ただし、19世紀の半ばまではブラジルにおけるコーヒー生産量はそれほど多くなく、コーヒーの価格も比較的高かったため、コーヒーを飲む習慣が大衆まで広がっていたわけではない。アメリカでコーヒー文化が庶民にしっかり根付くのは、19世紀後半になってブラジルがコーヒー大国化すると同時に、アメリカ国内で2つの大きな出来事が起きてからのことだ。それが「南北戦争(1861~1865年)」と「西部開拓(1860年頃~1890年頃)」だ。
南北戦争ではコーヒーが兵士の飲み物として普及した。特に北軍の兵士は1日に4杯ものコーヒーを飲んでいたと言われている。常に緊張を強いられる戦いの場において、覚醒効果やリラックス効果があるコーヒーが皆に好まれたからだとされている。戦争が終結すると、ホームタウンに戻った兵士たちを中心にコーヒー文化が広がって行った。
また、西部開拓を行った者たちも西部の冷風から体を温めるためにコーヒーをよく飲んでいたと言われる。開拓者たちは非常に貧しかったが、ブラジル産のコーヒーの価格が下がったため、彼らでもコーヒーを飲むことができたのである。
こうして1870年代にはアメリカにおいてコーヒー文化が大衆化したと言われている。