食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

満漢全席のはじまり-17~19世紀の中国の食の革命(3)

2021-12-10 21:57:49 | 第四章 近世の食の革命
満漢全席のはじまり-17~19世紀の中国の食の革命(3)
国内の反乱などにより滅亡した(1368~1644年)の後に中国を統治した(1644~1912年)は、満州族によって建国されました。当時の満州族は50万人程度しかいませんでしたが、一方の明の人口は1億人以上で、その中心は漢族でした。つまり、少数の満州族が大多数の漢族を支配していたのが清の時代です。

満州族は漢族の反発を抑えるために、明代の行政制度をほぼそのまま踏襲しました。例えば、明の官僚をそのまま登用し続け、また、科挙も継続して行いました。その一方で、漢族に満州族の伝統的な髪形である辮髪(べんぱつ)を強制するなど、文化の押し付けも行っています。このように、清代では満州族と漢族の融合が進められました。

今回取り上げる「満漢全席」も満州族と漢族の食文化が融合した最高級の料理コースとして誕生しました。つまり、「満」は満州族、「漢」は漢族のことであり、両民族の代表的な高級料理を食べつくそうという趣旨です。さて、どんな料理が出されたのでしょうか。



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満漢全席では、1回に3時間以上の宴席が数日にわたって続く。このため、途中で席をはずすのは自由であり、用事があれば帰宅してもよかった。

満漢全席は満州族の料理から始まる。満州族の方が漢族より上の立場だったので、満州族の料理が先に出るのだ。この時には、満州族に敬意を表して、服装も調度品も満州族のものが用いられた。

満州族の代表的な料理は肉料理で、調理法は単純だ。例えば、仔豚の丸焼きやしゃぶしゃぶなどが定番だった。満州族は遊牧民族であったことから、単に焼いただけ煮ただけの料理を好んだのだ。また、シューマイやなどの点心も満州族の料理として人気があり、必ず出されていた。

次の漢族の料理になると、服装と調度品が漢族のものに変えられたが、漢族の文化は洗練されていたため、満州族の時よりも厳かな雰囲気になったという。漢族の代表的な料理には、フカヒレの姿煮ツバメの巣のスープなどがあり、手の込んだ料理が多かった。

オーソドックスな満漢全席に「満漢燕翅焼烤全席」と呼ばれるものがある。満漢全席の間に「燕翅焼烤」という語句が挿入されているが、「燕」とはツバメの巣ことであり、「翅」とはフカヒレ、「焼烤」とは仔豚の丸焼きのことだ。つまり、これらの料理が出てくるものを満漢燕翅焼烤全席と呼んだのだ。

以上のような料理以外に、満漢全席では珍味と言われた珍しい食材を使った料理が次から次へと出てきたという。中国には「八珍」と呼ばれる珍味が時代ごとに定められ、珍重されてきたが、これが満漢全席で使用されたのだ。

八珍は、清代までは8種類の食材でできていたが、清代では「四八珍」と呼ばれて、四組の八珍で構成されるようになった。つまり、次のように、山八珍、海八珍、禽八珍(鳥の八珍)、草八珍の四種類、計32種類の食材が珍味として満漢全席で使用された。

・山八珍
駝峯(ラクダのコブ)、熊掌(クマの手)、猴脳(サルの脳)、猩唇(オランウータンの唇)、象攏(ゾウの鼻の先)、彪胎(ヒョウの胎児)、犀尾(サイのペニス)、鹿筋(シカのアキレス腱)

・海八珍
燕窩(ツバメの巣)、魚翅(フカヒレ)、大烏参(黒ナマコ)、魚肚(魚の浮き袋)、魚骨(チョウザメの軟骨)、鮑魚(アワビ)、海豹(アザラシ)、狗魚(オオサンショウウオ)

・禽八珍
紅燕、飛龍、鵪鶉、天鵝、鷓鴣、彩雀 、斑鳩、紅頭鷹(いずれも鳥の名前)

・草八珍
猴頭(ヤマブシタケ)、銀耳(シロキクラゲ)、竹蓀(キヌガサタケ)、驢窩菌、羊肚菌(アミガサダケ)、花茹(シイタケ)、黄花菜(金針菜)、雲香信

満漢全席が完成されたのは清の第6代皇帝乾隆帝(在位:1735~1796年)の時代であるが、そのはじまりについてはいくつかの言い伝えがある。その一つは、乾隆帝が揚州を訪れた時に、その地の豪商が、満州族と漢族の手法をとり入れた山海の珍味を満漢席と命名して皇帝に献上したというものである。

これ以外には、グルメだった乾隆帝が、珍味を108品選び、それを組み合わせて満漢全席を創作したというものがある。また、清の第4代皇帝の康熙帝(こうきてい)(在位:1661~1722年)が66歳の誕生日に北京の老人300人を招待して、漢族と満州族の料理を3日間かけてふるまったのが始まりという話もある。

さて、このように豪華な料理を食べていた清の皇帝たちであったが、それは漢族との融和をはかるための特別の宴会の時だけであり、普段の食事や生活はそれほど贅沢というわけではなかった。例えば、第4代皇帝の康熙帝が自ら語ったところによると、明の1日の宮廷費で清の1年分の宮廷費がまかなえたという。ちなみに、康熙帝は中国歴代最高の名君とされている。


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