マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

聞き手

2016-11-18 00:39:41 | 最近の読書
『共に生きる生活』ディートリッヒ・ボンヘッファー著 / 森野善右衛門訳 新教出版社 2014 より

Ⅴ 罪の告白と主の晩餐
179ページ
「…イエスの十字架の下に生きている人、またイエスの十字架においてすべての人間と自分の心の中にある最も深い無神性を知った人、そのような人にとってはもはやどんな罪でも無関係なものはない。イエスを十字架にかけた自分の罪の恐ろしさに一たび驚愕した者は、もはや兄弟のどんなに深刻な罪にも驚くことはない。彼はイエスの十字架から人間の心を知る、人間の心が罪と弱さの中でどれほど完全に失われているか、罪の道にどれほど迷い込んでいるか、またそれが恵みと憐れみの中でどのように受け入れられているかを知る。ただ十字架の下にいる兄弟だけが、私の罪の告白を聞くことができる。人生経験ではなく十字架経験が罪の告白の聞き手を造る。…」


今日、この本を読んでいて、心に留まったところです。
ひとりの罪人に過ぎない私を、主がどんなに憐れんでくださっているのかを思い巡らしています。

明日は神学校の「祈りの日」とされていますので、学びの手を止めて、祈り静まって過ごします。

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冒険

2014-02-10 23:16:26 | 最近の読書
しばらく前に、『トゥルニエを読む(上) キリスト者の成長と成熟』(工藤信夫 編著・あめんどう)を読みました。
そして、今はその本の中で紹介されている、トゥルニエの『生の冒険』(ポール・トゥルニエ著 久米あつみ訳 日本キリスト教団出版局 )を取り寄せて読み始めました。
そもそも人間には「冒険本能」が与えられている、という視点に私は興味を覚えました。
少しずつ読み進めています。


「...教会の指導者たちはいつも、熱情がふたたび燃え上がることを望むが、すでに取られた方向の中でのみ考える。ところがやって来るのは新しい出発だということになると、最初彼らはあわててしまう。このように新しい出発は、過去の光による彼らの教会観をつまずかせ、くつがえすものだからである。彼らには新しい聖霊運動は進展し完成するよりも、教会を裏切り破壊するものと見えるのである。そこで正規の教会はいつでもすべての深刻な霊的冒険を拒絶して来たし、襲撃を受けたあとではじめて、自分の迫害したものによって救われたことに気づくのだ。... 各時代が冒険であり、ひとつひとつの生が冒険である。…」(『生の冒険』p61-62 )


私も神様のお許しの中で冒険を続けていきたいと思います。
この冒険というテーマを思い巡らしていて、ふと思い出しました。
昨年の牧会塾のクラスで作ったコラージュ(NEXTという題をつけた)です。
保管しておいたファイルから久しぶりに引っ張り出しました。
もう一度、改めて眺めて...



神様の導きと備えへの期待と信頼を新たにしました。

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貴重な助言

2013-04-09 22:17:31 | 最近の読書


教会の正面通路の脇に広がる、ラズベリーです。


さて、今日は用事で少し外出したものの、ほとんど教会で過ごしました。
祈り、祈祷会の準備、手紙、環境整備など...
そして、時々参加している、三鷹の会のためのブックレポートをまとめました。


『 若い牧師・教会リーダーのための14章』 ジョン・M・ドレッシャー 著 / 工藤 信夫 訳 / いのちのことば社 より。

私が教えられた部分のいくつかを引用してご紹介します。

祈りについて
p18「神と一対一で静かに過ごす時間こそが、何を優先させるべきかの識別力を養い、神の臨在や力を受ける道を開くのである。また、私たちがどれほどキリストと親しい生活を送っているかが、神のための霊的な力を計る物差しとなるのである。」

読書について
p23 トマス・R・スウェアーズ のことばの引用 「どんな本を読むか賢い選択をしたい。それは指導者に求められる大切な能力の一つである。本を選ぶにあたっては、できるだけバランスのとれた読書計画を立てておくべきである。そうしたバランス感覚によって牧師は、カウンセリングや教育、説教のイメージが狭苦しいものになることから守られるのである。牧師の考えや話の基となるイメージには、人間の持つ幅広い必要に応えられるような広がりが不可欠なのである。」

説教について
p38「だから、私たちがキリストを説教し、彼によって救いのみわざがなされたことを伝えるとき、聖霊の力は自由に働き、私たちの生活は変えられ、古い生活と罪の束縛から解放されるのである。人々の関心をひく説教というものが確かにある。しかし、キリストと十字架がなければ、人生や生活を変える力はないのである。」

牧会について
p75-76「神が生活を変えてくださると信じるところに、すばらしい解放と自由があるといっても、私たち牧師の仕事は、人々を変えることではない。私のなすべきことは、教会の人たちを愛し、受け入れることである。人に確信を与え、罪の自覚をもたらし、回心をもたらすのは聖霊の働きである。」

この他にも著者が自身の牧会を振り返って綴る助言は、とても貴重で参考になります。


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旅路

2012-10-24 13:29:49 | 最近の読書
最近、ブログ更新のペースが少し落ちてます。
おかげさまで元気なのですが、ついつい後回しに。

そんなわけで覚え書きがてら、レポートの課題図書「宣教学入門」の中から。
教会の宣教を神の三位一体という視点で論じています。
宣教の関心事を神の国であるとし、御国の宣言、御国の現存、御国の先行の3つの要素から成るとしています。

その中でも再確認しておきたいことです。
第6章 聖霊の証しを担うこと ー 行動に現れた希望としての宣教 より。

「教会は宣教を自らの思い通りにすることはできないのである。別のお方[聖霊]が宣教を支配しているのであって、そのお方のなさる新しい御業は、繰り返し教会を驚嘆させ、教会が語るのを止めさせて、耳を傾けるようにさせるのである。聖霊ご自身が宣教の主権者であるがゆえに、教会はただ聖霊に耳を傾ける僕であることしかできないのである。全くのところ、聖霊ご自身が、教会の宣教の旅路において教会の前を行く証人なのである。教会の証言は二次的であり、派生的なものである。教会は聖霊の導きに従う限りにおいて、証人なのである。」(p104)

「教会の宣教は、軍事作戦や、商品の販売促進キャンペーンのような仕方で行われたり、あるいは、宣教の成否がそのような仕方で計られたりすることはない」(p106)


聖霊が私たちの間で働いておられることを認め、注意深く見極めて、信頼し従うものでありたいと思います。
また、最近の祈祷会では、教会形成をテーマに学び、考えているところでもあります。
主のみこころにかなう歩みへと整えられますように。


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言葉について考える

2012-08-22 12:52:43 | 最近の読書
今期は、「聖書解釈1」を履修しています。
旧カリキュラムでは「日本語」と呼ばれていたとおり、まず言葉への意識を深めるねらいがあります。
日常で使っている日本語の表現でも、いざ説明を求められると、分かりやすくまとめられないもどかしさを感じます。
言葉を適切に用いるって、本当に難しい。

さて、この夏の課題のために「日本語練習帳」(大野晋著 岩波新書)を読みました。
本文では...
「のである」や「のだ」を極力使わないようにする。
「が、」を避ける。
...というような具体的な指摘もありました。
私は一文を長くしてしまう癖があるので、文章を書く時に気をつけたいところです。

あと、神学校の課題とは関係なく、この本を読みました。



「『ひらがな』で話す技術」(西任暁子著 サンマーク出版)

こちらは話す場合のことを想定しています。
相手に伝わる話し方の秘訣が紹介されていて、自分の話し方を考えさせられる内容でした。
今回得た理解をもとに、あらためて自分の話し方も意識していきたいと思います。

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