『共に生きる生活』ディートリッヒ・ボンヘッファー著 / 森野善右衛門訳 新教出版社 2014 より
Ⅴ 罪の告白と主の晩餐
179ページ
「…イエスの十字架の下に生きている人、またイエスの十字架においてすべての人間と自分の心の中にある最も深い無神性を知った人、そのような人にとってはもはやどんな罪でも無関係なものはない。イエスを十字架にかけた自分の罪の恐ろしさに一たび驚愕した者は、もはや兄弟のどんなに深刻な罪にも驚くことはない。彼はイエスの十字架から人間の心を知る、人間の心が罪と弱さの中でどれほど完全に失われているか、罪の道にどれほど迷い込んでいるか、またそれが恵みと憐れみの中でどのように受け入れられているかを知る。ただ十字架の下にいる兄弟だけが、私の罪の告白を聞くことができる。人生経験ではなく十字架経験が罪の告白の聞き手を造る。…」
今日、この本を読んでいて、心に留まったところです。
ひとりの罪人に過ぎない私を、主がどんなに憐れんでくださっているのかを思い巡らしています。
明日は神学校の「祈りの日」とされていますので、学びの手を止めて、祈り静まって過ごします。
Ⅴ 罪の告白と主の晩餐
179ページ
「…イエスの十字架の下に生きている人、またイエスの十字架においてすべての人間と自分の心の中にある最も深い無神性を知った人、そのような人にとってはもはやどんな罪でも無関係なものはない。イエスを十字架にかけた自分の罪の恐ろしさに一たび驚愕した者は、もはや兄弟のどんなに深刻な罪にも驚くことはない。彼はイエスの十字架から人間の心を知る、人間の心が罪と弱さの中でどれほど完全に失われているか、罪の道にどれほど迷い込んでいるか、またそれが恵みと憐れみの中でどのように受け入れられているかを知る。ただ十字架の下にいる兄弟だけが、私の罪の告白を聞くことができる。人生経験ではなく十字架経験が罪の告白の聞き手を造る。…」
今日、この本を読んでいて、心に留まったところです。
ひとりの罪人に過ぎない私を、主がどんなに憐れんでくださっているのかを思い巡らしています。
明日は神学校の「祈りの日」とされていますので、学びの手を止めて、祈り静まって過ごします。