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久しぶりの更新になりました。
首都圏も緊急事態宣言が解除されることになります。とは言いましても、実際の生活はこれから徐々に戻っていくことになるのでしょう。
今日の午前中は、牧師仲間とzoomでのミーティング。有意義な学びの時間になりました。もうしばらくはこのスタイルを継続することになりそうです。
午後は、銀行などに用事で外出。運動も兼ねて、そのままいつものウォーキングコースをまわりました。日差しは強くて汗ばむくらいでしたが、木陰に入ると心地よい風を感じました。
緊急事態宣言の解除を受けて、今後は日曜日の主日礼拝再開を視野に入れ、準備していくことになります。6月第一週を目標に検討中です。
マスク着用や座席間の距離、換気等の基本的な対策はもちろんのこと、礼拝プログラムの内容や進め方にも配慮したいと思います。
さて、月末を迎えていますので、5月のメッセージの要約を掲載しておきます。旧約聖書からの2回分です。
2020年5月 Ⅰサムエル記14-15章
聖書箇所:サムエル記第一14章47-52節
題:『王とされたサウルの生涯』
聖書は『王とされたサウルの生涯』を、(14:47,48)「さてサウルは、イスラエルの王権を握ってから、周囲のすべての敵と戦った。モアブ、アンモン人、エドム、ツォバの王たち、ペリシテ人と戦い、どこに行っても彼らを敗走させた。彼は勇気を奮って、アマレク人を討ち、イスラエル人を略奪者の手から救い出した」と要約している。ここではサウルの欠点や失敗については沈黙し、彼の勇姿を伝えている。この箇所の表現には、サウルを王に選び、その務めに召して用いていた、神のいつくしみと真実を覚えずにはいられない。一方、(14:52)「サウルの一生の間、ペリシテ人との激しい戦いがあった。サウルは勇気のある者や、力のある者を見つけると、その人たちをみな、召しかかえることにしていた」には、王国の基盤を軍事力で築き上げていこうとするサウルの考え方が反映されている。主への信仰にまつわる記述がないことと、彼の生涯に平和が訪れなかったこととは無関係ではなかろう。主に頼ることが信仰者の最善である。(ローマ11:29)「神の賜物と召命は、取り消されることがない」と言われている。私たちは求め続けよう。神が私たちを召しにふさわしい者とし、用いてくださるように(Ⅱテサ1:11)。(2020.5.10)
聖書箇所:サムエル記第一15章1-9節
題:『わたしは覚えている』
神は公平な報いをもたらす(ローマ2:6-8)。サウルが王になって月日は流れ、主は預言者サムエルにより『わたしは覚えている』と語った(15:1,2)。神が「覚えている(訪れる)」という場合、祝福もしくはさばきをもたらすのを意味する。このとき主が「覚えている」としたのは、南方の遊牧民、アマレク人のことだ。かつてエジプトから約束の地に向かうイスラエルを妨害した。その出来事は、当時すでに400年余りも過去のことだ。しかし、その後もアマレクはイスラエルで略奪をくり返していた(士師記6:3,4他)。主とその民への悪行は、時至ってさばかれる。それで、主はサウルにアマレク討伐を命じた。(15:3)「今、行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。容赦してはならない。」人も家畜も生かしておかずに、すべての戦利品を処分せよ、という厳格な命令だ。主のさばきの厳しさを物語る。ところが、サウルは敵の王の命と戦利品のうちの良い物を惜しんで、残しておいた。このように振る舞うことで、彼らは神のさばきを歪めてしまった。私たちの自分勝手な判断と行動で、神のみこころを損なうことがないように。(2020.5.17)
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
5月に入りました。緊急事態宣言も延長のようです。
親交のある牧師間で情報交換をしていますと… それぞれの教会や地域の状況を考慮しながら、教会の活動、牧会をしている様子を耳にします。
たとえば、Zoomを使った会議や聖書の学びの時間も増えているようです。このところ、私も何度か経験しています。もうしばらく、この状況は続くでしょうから…Webの会議やコミュニケーションにも多少は慣れていくのかなぁ、なんて思っています。
東村山聖書教会は、引き続き各家庭での礼拝を呼びかけています。そのために週報や説教の代わりとなる奨励の文書を配布しています。今日も自宅で準備をしていました。
さて、4月分の説教のあらすじを掲載しておきます。旧約聖書の講解の2回分です。
2020年4月 Ⅰサムエル記14章
題:『兵たちはたいへん疲れていた』(サムエル記第一14章31-35節)
(箴言11:14)は「指導がないことによって民は倒れる」と教える。指導者が賢い判断をしないと民に損害が及ぶ。王子ヨナタンの活躍で勝利したものの、イスラエルには問題が残っていた。その問題とは、サウル王が命じていた断食だ。兵士らは空腹のまま、敗走するペリシテの軍隊を30㎞余り追撃した。(Ⅰサムエル14:31)『兵たちはたいへん疲れていた』のも当然だ。断食の終わる日没になると、彼らは戦利品の家畜を勝手に食べ始めた。軍隊の規律は失われた。しかも、律法に違反し、(33)「血のままで食べて、主に罪を犯しています」という有様だ。王は、(33)「おまえたちは裏切った」、つまり、主の民にふさわしくない行為に及んだ、と指摘した。サウルの発言は正論だが、自分の誓願に一因があるとは考えなかったようだ。兵士らの冒涜行為を止めるため、サウルは祭壇を築いた。聖書は、それを(35)「彼が主のために築いた最初の祭壇」と記す。サウルの信仰や言動への皮肉を含むようにも思われる。これら一連の記事から、指導者のために祈る意義を考えさせられる。私たちは、指導者が正しい判断で指導力を発揮できるよう祈り、神の御前にとりなす(Ⅰテモテ2:1-3参照)。 2020.4.19
題:『愚かな誓いが招いた結果』(サムエル記第一14章36-46節)
(伝道者の書5:2,4,5)は、「神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。…」と軽率な発言や一貫性のない言動を戒める。ことばには責任が伴う。サウルが神の御前に立てた誓願から、さらに深刻な問題が起きる。サウルはペリシテ人追撃の是非を神に尋ねたが、(Ⅰサムエル14:37)「しかしその日、神は彼にお答えにならなかった」。サウルは、神の沈黙の原因を「どうしてこの罪が起こったのか」と言い、悪を行った人物を突きとめようとした。結局、ヨナタンがその人だと分かる。彼は断食の誓願を知らずに、道中で見つけた蜂蜜を食べていたからだ。サウルは息子ヨナタンに(44)「神が幾重にも罰してくださるように。…」と厳しく迫った。ヨナタンの違反は事実であり、この発言にはサウルなりの信仰や正義があるのだろう。ただしこの時も、自身の『愚かな誓いが招いた結果』だと自覚しなかったようだ。この緊迫した場面で、民はヨナタンを勝利の功労者として(45)「今日、あの方は神とともにこれをなさったのです」と主張した。そうして、サウルを思いとどまらせ、ヨナタンを救った。これらの記録から、サウル王は形式的に律法を守ろうとはしても、神への信頼や恐れ、神との人格的な交わりには乏しかったのではなかろうか。私たちの発言と行動はどうだろうか。 2020.4.26
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。