マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

転入会

2020-09-22 10:29:00 | 教会の風景
今月第一週に転入会式を行いました。
ここ数年来、東村山聖書教会に通っておられたお二人を正式に教会員としてお迎えしました。
転入前の準備会がコロナ禍で中断した時期もありましたが、所定の手順を経て転入が承認され、この日を迎えました。
 
信仰の再確認と教会への意識を深めて頂けるよう、この節目を大切に扱います。
また、歓迎の心を込めて、お二人に花束を贈りました。礼拝後には記念撮影も。
 
教会としての歩みは一歩一歩ゆっくりですが…
道を求め、訪ねて来る方々を迎え入れつつ、教会設立5年目も半ばまで来ました。
 






 
さて、過去の説教のあらすじも掲載しておきます。旧約聖書の講解説教の2回分です。
 
2020年7月 Ⅰサムエル記15-16章
Ⅰサムエル記15:24-31 説教題:『私は罪を犯しました』
 聖書が教える悔い改めとはどのようなものだろうか。サウルの言動から考えたい。サウルは預言者サムエルに「私は罪を犯しました。兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い、主の命令と、あなたのことばに背いたからです」と告白した(15:24)。「背いた」とは、「越える」というニュアンスを含む。サウルは主のことばに従ったようでもあるが、肝心なことを守らず、主のみこころから外れていた。預言者によるさばきの宣告に、サウルはようやく非を認めたようだ。だが、(15:25)「私の罪を見逃してください…」というサウルの懇願にも、神の決定は覆ることはなく、「主があなたをイスラエルの王位から退けられた」とされる(15:26)。そこで再び「私は罪を犯しました」と告白するも、「しかし、今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください」と続けた。サウルの告白が人前での体裁を気にしたものに過ぎなかったことが分かる。これは、ダビデの罪意識や告白、「私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。…」(詩篇51:4他)とは異なる。真の悔い改めとは、神の前に自分の罪深さを認めて告白し、赦しを乞うものである。(2020.7.12.)
 
 
Ⅰサムエル記161:-7 説教題:『主は心を見る』
 人と神の見方は異なる。身だしなみに気を配るのもマナーとして大事だが、神は心をご覧になる。イスラエルの王位にまつわる新たな展開から学ぼう。主は預言者サムエルに「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしはサウルを王位から退けている」と告げた(16:1)。直前の(15:35)によれば「主も…悔やまれた」とサウルの不従順を深く悲しんでいるが、主の思いは王位にまつわる新たな局面へと向かっていることを示唆する。「わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」主の命令でエッサイ一家を訪ねた預言者は、長男エリアブをひと目見て、彼が次の王になる人物と思い込んだ。しかし、主はサムエルをたしなめ、「人はうわべを見るが、主は心を見る」と教え諭した。その場合、主はどのような基準で心をご覧になるのだろうか。(Ⅱ歴代誌16:9)によれば、「その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださる」とある。神を信じて、その教えと導きに頼るか否かという基準だろう。私たちの心はどうだろうか。(2020.7.19.)

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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講師をお迎えして ⑵

2020-09-06 13:23:00 | 教会の風景
先週のことになりますが…
東村山聖書教会は、二週続けて礼拝に講師をお迎えすることになりました。
 


 
今回の講師は、神学校同期のWさん。
ご家族で訪ねてくださいました。
久しぶりの再会。
ただし、今回の礼拝も密を避けるためZoomでのオンラインにして、オンライン環境の整わない方々のみ実際に集う形式にしました。
 
 
W兄は以下の聖書箇所から『上、下、前、手元』と題して、お話しくださいました。
 
マタイの福音書6章25-34節
"ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。"
 
説教題は、信仰者の意識を向ける方向を表現していました。私たちの日常に神の恵みが及んでいることを忘れず、バランスの取れた健全な信仰生活を送るためです。
 
上:空の鳥を見なさい。
下:野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。
前:まず神の国と神の義を求めなさい。
手元:苦労はその日その日に十分あります。
 
 




礼拝はもちろんのこと、礼拝後も歓談し、幸いな時間を持つことができました。
神学校在学中に生まれた子供さんたちも大きくなって、Wさん一家の微笑ましい光景に心和みました。

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講師をお迎えして⑴

2020-08-26 22:56:00 | 教会の風景

久しぶりの更新になりました。


東村山聖書教会の最近の様子です。
6月第一週から日曜日の礼拝を再開して、三ヶ月余り。
もちろん今も、換気や座席の距離、マスク着用と手指消毒、礼拝のプログラムに配慮して慎重に対応しています。
 
ところで、この前の日曜日、年間計画で講師をお迎えすることになっていました。
せっかくの機会なので…
来て頂きたいとお伝えしたところ、講師M先生も快く応じてくださいました。
 
ただ、迎える側としては配慮も必要です。
こういう状況のため、Zoomを使ったオンラインの形式に。
密を避けるためとは言いましても、オンラインにせざるを得なかったのは少々残念でした。
 
 


 
M先生は、詩篇16篇から神への信頼と確かな希望とを語ってくださいました。
 
神よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。私は主に申し上げます。『あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。』」(詩篇16篇1,2節)
 
あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。」(詩篇16篇10,11節)
 
新約聖書では、イエス・キリストの復活を預言した箇所として引用されています。(使徒2章27,31節)
 
キリストをよみがえらせた、永遠の神。
キリストを信じる者に永遠のいのちを与えます。
今やキリストのゆえに、滅びることはあり得ず、いのち、確かな希望があります。
 
 

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宣言解除… 再開に向けて

2020-05-25 18:01:00 | 教会の風景

首都圏も緊急事態宣言が解除されることになります。とは言いましても、実際の生活はこれから徐々に戻っていくことになるのでしょう。

 

今日の午前中は、牧師仲間とzoomでのミーティング。有意義な学びの時間になりました。もうしばらくはこのスタイルを継続することになりそうです。

午後は、銀行などに用事で外出。運動も兼ねて、そのままいつものウォーキングコースをまわりました。日差しは強くて汗ばむくらいでしたが、木陰に入ると心地よい風を感じました。



 

緊急事態宣言の解除を受けて、今後は日曜日の主日礼拝再開を視野に入れ、準備していくことになります。6月第一週を目標に検討中です。

マスク着用や座席間の距離、換気等の基本的な対策はもちろんのこと、礼拝プログラムの内容や進め方にも配慮したいと思います。

 

さて、月末を迎えていますので、5月のメッセージの要約を掲載しておきます。旧約聖書からの2回分です。

 

2020年5月 Ⅰサムエル記14-15章

聖書箇所:サムエル記第一14章47-52節

題:『王とされたサウルの生涯』

 聖書は『王とされたサウルの生涯』を、(14:47,48)「さてサウルは、イスラエルの王権を握ってから、周囲のすべての敵と戦った。モアブ、アンモン人、エドム、ツォバの王たち、ペリシテ人と戦い、どこに行っても彼らを敗走させた。彼は勇気を奮って、アマレク人を討ち、イスラエル人を略奪者の手から救い出した」と要約している。ここではサウルの欠点や失敗については沈黙し、彼の勇姿を伝えている。この箇所の表現には、サウルを王に選び、その務めに召して用いていた、神のいつくしみと真実を覚えずにはいられない。一方、(14:52)「サウルの一生の間、ペリシテ人との激しい戦いがあった。サウルは勇気のある者や、力のある者を見つけると、その人たちをみな、召しかかえることにしていた」には、王国の基盤を軍事力で築き上げていこうとするサウルの考え方が反映されている。主への信仰にまつわる記述がないことと、彼の生涯に平和が訪れなかったこととは無関係ではなかろう。主に頼ることが信仰者の最善である。(ローマ11:29)神の賜物と召命は、取り消されることがない」と言われている。私たちは求め続けよう。神が私たちを召しにふさわしい者とし、用いてくださるように(Ⅱテサ1:11)。(2020.5.10)

 

聖書箇所:サムエル記第一15章1-9節

題:『わたしは覚えている』

 神は公平な報いをもたらす(ローマ2:6-8)。サウルが王になって月日は流れ、主は預言者サムエルにより『わたしは覚えている』と語った(15:1,2)。神が「覚えている(訪れる)」という場合、祝福もしくはさばきをもたらすのを意味する。このとき主が「覚えている」としたのは、南方の遊牧民、アマレク人のことだ。かつてエジプトから約束の地に向かうイスラエルを妨害した。その出来事は、当時すでに400年余りも過去のことだ。しかし、その後もアマレクはイスラエルで略奪をくり返していた(士師記6:3,4他)。主とその民への悪行は、時至ってさばかれる。それで、主はサウルにアマレク討伐を命じた。(15:3)「今、行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。容赦してはならない。」人も家畜も生かしておかずに、すべての戦利品を処分せよ、という厳格な命令だ。主のさばきの厳しさを物語る。ところが、サウルは敵の王の命と戦利品のうちの良い物を惜しんで、残しておいた。このように振る舞うことで、彼らは神のさばきを歪めてしまった。私たちの自分勝手な判断と行動で、神のみこころを損なうことがないように。(2020.5.17)

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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状況を考慮しながら

2020-05-02 00:38:00 | 教会の風景

5月に入りました。緊急事態宣言も延長のようです。

親交のある牧師間で情報交換をしていますと… それぞれの教会や地域の状況を考慮しながら、教会の活動、牧会をしている様子を耳にします。

たとえば、Zoomを使った会議や聖書の学びの時間も増えているようです。このところ、私も何度か経験しています。もうしばらく、この状況は続くでしょうから…Webの会議やコミュニケーションにも多少は慣れていくのかなぁ、なんて思っています。

 

東村山聖書教会は、引き続き各家庭での礼拝を呼びかけています。そのために週報や説教の代わりとなる奨励の文書を配布しています。今日も自宅で準備をしていました。

 

さて、4月分の説教のあらすじを掲載しておきます。旧約聖書の講解の2回分です。

2020年4月 Ⅰサムエル記14章

題:『兵たちはたいへん疲れていた』(サムエル記第一14章31-35節)

 (箴言11:14)は「指導がないことによって民は倒れる」と教える。指導者が賢い判断をしないと民に損害が及ぶ。王子ヨナタンの活躍で勝利したものの、イスラエルには問題が残っていた。その問題とは、サウル王が命じていた断食だ。兵士らは空腹のまま、敗走するペリシテの軍隊を30㎞余り追撃した。(Ⅰサムエル14:31)『兵たちはたいへん疲れていた』のも当然だ。断食の終わる日没になると、彼らは戦利品の家畜を勝手に食べ始めた。軍隊の規律は失われた。しかも、律法に違反し、(33)「血のままで食べて、主に罪を犯しています」という有様だ。王は、(33)「おまえたちは裏切った」、つまり、主の民にふさわしくない行為に及んだ、と指摘した。サウルの発言は正論だが、自分の誓願に一因があるとは考えなかったようだ。兵士らの冒涜行為を止めるため、サウルは祭壇を築いた。聖書は、それを(35)「彼が主のために築いた最初の祭壇」と記す。サウルの信仰や言動への皮肉を含むようにも思われる。これら一連の記事から、指導者のために祈る意義を考えさせられる。私たちは、指導者が正しい判断で指導力を発揮できるよう祈り、神の御前にとりなす(Ⅰテモテ2:1-3参照)。      2020.4.19

 

題:『愚かな誓いが招いた結果』(サムエル記第一14章36-46節)

 (伝道者の書5:2,4,5)は、「神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。…」と軽率な発言や一貫性のない言動を戒める。ことばには責任が伴う。サウルが神の御前に立てた誓願から、さらに深刻な問題が起きる。サウルはペリシテ人追撃の是非を神に尋ねたが、(Ⅰサムエル14:37)「しかしその日、神は彼にお答えにならなかった」。サウルは、神の沈黙の原因を「どうしてこの罪が起こったのか」と言い、悪を行った人物を突きとめようとした。結局、ヨナタンがその人だと分かる。彼は断食の誓願を知らずに、道中で見つけた蜂蜜を食べていたからだ。サウルは息子ヨナタンに(44)「神が幾重にも罰してくださるように。…」と厳しく迫った。ヨナタンの違反は事実であり、この発言にはサウルなりの信仰や正義があるのだろう。ただしこの時も、自身の『愚かな誓いが招いた結果』だと自覚しなかったようだ。この緊迫した場面で、民はヨナタンを勝利の功労者として(45)「今日、あの方は神とともにこれをなさったのです」と主張した。そうして、サウルを思いとどまらせ、ヨナタンを救った。これらの記録から、サウル王は形式的に律法を守ろうとはしても、神への信頼や恐れ、神との人格的な交わりには乏しかったのではなかろうか。私たちの発言と行動はどうだろうか。       2020.4.26

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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