聖書箇所:テサロニケⅠ 5:23,24
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」
パウロはテサロニケの教会の人々のために祈った。
しかも、ただ祈りの言葉を記すだけではなく、その祈りが必ず答えられるという理由も添えている。
そこに注目したい。
テサロニケの信者が、聖なるもの、責められるところのないものとして神様の前に立てるという理由は、召された方(ここでは平和の神ご自身とも表現される)の真実にある。
そして、神様の真実は、どんなことがあっても間違いはないから、私たちは安心することができる。
ここでも私たちができることは、主に信頼するということだと思う。
私たちを召してくださった方は、真実なので、確実に私たちを聖なるものとしてくださり、責められるところのないものとして、御前に立たせてくださる。
私たちが頂いた救いの確かさは、この方の真実に基づいている。
それを思うと、心に平安。
主よ、感謝します。
私たちが頂いた救いは、なんと素晴らしいのでしょう。
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」
パウロはテサロニケの教会の人々のために祈った。
しかも、ただ祈りの言葉を記すだけではなく、その祈りが必ず答えられるという理由も添えている。
そこに注目したい。
テサロニケの信者が、聖なるもの、責められるところのないものとして神様の前に立てるという理由は、召された方(ここでは平和の神ご自身とも表現される)の真実にある。
そして、神様の真実は、どんなことがあっても間違いはないから、私たちは安心することができる。
ここでも私たちができることは、主に信頼するということだと思う。
私たちを召してくださった方は、真実なので、確実に私たちを聖なるものとしてくださり、責められるところのないものとして、御前に立たせてくださる。
私たちが頂いた救いの確かさは、この方の真実に基づいている。
それを思うと、心に平安。
主よ、感謝します。
私たちが頂いた救いは、なんと素晴らしいのでしょう。