マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

人のこころ

2007-12-04 19:25:51 | 教会の風景
先日のYouth For Jesus。

Mさん司会のため、家族で出席。
Yちゃんは元気に歩きまわっていた。
Yちゃんの存在は、自然と周囲に笑顔と和みを与えてくれる。

ショートメッセージ
聖書箇所 ヨハネ12:1-8

「イエス様に対するこころ」

人のこころの不思議さを思う場面。

イエス様がベタニヤを再度訪問。
人々が準備した晩餐会に出席。
そこにはラザロ、マルタ、マリヤもいた。

ラザロは食卓で接待。
マルタは給仕係。
では、マリヤは・・・?

マリヤはイエス様の足元にいた。
そして非常に高価な香油をイエスの足に注ぎ、自分の髪の毛で拭うという行為。

私たちには理解に苦しむ行為かもしれない。
なぜ?何のために?
しかし、私たちばかりではなく、当時そこに居合わせた人々にとっても??な行為だった。
香油は頭に注ぐことが一般的で、しかも女性が人前で髪の毛をかき乱して足を拭うことは普通ではない。
しかし、彼女の行為は、明らかにイエス様に対する尊敬、畏敬のこころの表現だった。

 
ここで対照的なのは、十二弟子のひとり、イスカリオテ・ユダのこころ。
彼女の行為をとがめた。
香油を売って、そのお金を貧しい人に与えた方がいい!と。
一見、もっともらしい意見だが、裏がある。
ユダは一行の会計係だった。
しかも、着服していたことを著者ヨハネは説明している。
貧しい人々を思うように装いながら、実は自分の私腹を肥やすためだった。

イエス様は、ユダをたしなめる。
マリヤの行為を自分の死のための準備であると告げる。
マリヤのとった行為は普通ではなかったかもしれない。
しかし、イエス様はマリヤのこころを受け止められた。


同じようにイエス様を前にしながら、二人の心は対照的だった。
マリヤとユダ。
表面上はむしろユダの意見の方がもっともらしく聞こえたかもしれない。
イエス様を信じると表明していた二人だったが、そのこころには大きな隔たりがある。


私たちはたとえ不器用な表現しかできなかったとしても、イエス様は私たちのこころを受け止めてくださる。
イエス様の前に私たちのこころを精一杯表現できれば、それが一番いい。


集会後は交わり。
Y君の提案で、Youth For Jesusの歌を作ろうということになった。
みんなで話をしながら歌詞を作っていった。
Youthのカラーが出てるなかなか味のある歌ができた。
曲はM君にお願いすることに。

夕食は、やはりみんなで。
KING GRACE のみんなの帰りに合わせて夕食。
見事、小平で開かれたフットサル大会で準優勝!!



メニューは、竜田揚げ、スパゲティ、サラダのプレートとスープ。

おいしかった!

その後、H君、M君のバースデーをお祝い。


Eちゃんチョイスのベリーのタルトとゼリー。

こちらもおいしかった!

この日も完全燃焼。

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神様の祝福

2007-12-04 18:47:19 | 教会の風景
12月2日の礼拝説教ダイジェスト


聖書箇所 創世記35:9-15

「祝福の宣言」


9節
「こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。」

神様は祝福することを惜しまない。
むしろ、神の祝福は、くり返しヤコブに告げられている。

20年前、このベテルの地域で旅の途中のヤコブを祝福した。
20年後、ベテルに戻ってきて、再び祝福が告げられた。
祝福のメッセージは、ヤコブが節目を迎えるごとに確認された。

神様は人をよく知っておられる。
私たちは、忘れやすく誤解しやすい存在である。
神様が良いメッセージとして伝えたことでさえ、曲解してしまうことがある。
くり返し聞くことの大切さを私たちは学ぶ必要がある。


さて、基本的な疑問だが、神の祝福とは何だろう?
20年前のヤコブへの祝福の約束は、20年後と比較すると・・・


杖一本 → 二つの宿営

ひとり → 12人の息子を持つ大家族

兄との確執と旅立ち → 兄との和解と帰郷


というところに現れているように思われる。
だが、神の祝福とは財産や家族、問題の解決だけを意味するのだろうか?


もしそうであるならば、神様はここで再びヤコブを祝福する意味は薄れてしまう。
すでに持っているのだから。
財産、幸せな家庭、問題の解決=神の祝福であると考えるのはあまりにも短絡。
もちろん、神の祝福の中で与えられたものであることは確かだが、中心ではない。
むしろ、おまけに過ぎない。


神の祝福の最も中心的なものは・・・
10節以降に現れている。

ヤコブ → イスラエル

「ヤコブ」という名は生まれた時に名付けられたもの。
双子の兄のかかとを持って生まれてきたことから「かかと」を意味する。
しかも「だます」という言葉の語幹が似ているそう。
ヤコブの過去の過ちを思い起こさせる。

「イスラエル」は、神であり人である謎の人物(受肉前のキリスト)と徹夜の格闘をした末、神より授かった名前。

ここでの祝福の時に、あえて名前のことを持ち出したことに注意したい。
「イスラエル」であること、神に選ばれ、神と向き合う者であること。
祝福の中心には、神に選ばれ、神と向き合う関係がある。


しかも、神様はヤコブにご自身を証言しておられる。
「わたしは全能の神である。」
神様がどのような方であるのかを知ること。
これは祝福の最も中心的なこと。


しかも、ヤコブへの祝福は、彼自身だけのものではない。
彼の子孫としてのイスラエル民族への祝福である。
さらには、全世界の祝福につながることを暗示している。
実際、数千年の歴史(旧約聖書の歴史とも言えるが)を経て、受け継がれていく。


後にイスラエルの子孫から生まれた方のことを思う。
その方は、イエス・キリスト。
このイエスという方のゆえに、福音(Good News)が今や世界中に届けられている。
イエス様の降誕を祝うクリスマスを間近に控え、改めて神様の祝福の計画のスケールを思う。



今年のクリスマス、神様を知るという最高の祝福が多くの方々の上にありますように!

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