昨日も一日充実していました
礼拝説教は、
出エジプト記16:1-30からでした。
「荒野でのつぶやき」
エジプトからの劇的な救出、紅海のほとりでの麗しい礼拝
の場面の後。
イスラエル人たちは、荒野での食糧不足という試練
を通ります。
「・・・そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。
・・・『エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。
事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。』」(16:2-3)
エジプトでの奴隷の立場から解放され、数々の奇跡的な出来事を
目にしてきたはずのイスラエル人たち。
しかし、食料がないという目の前の事態に、それまでの主の救いと導きを認めようとしませんでした
あれほどの奇跡的な救出を経験し、その感動を
歌で表現したのは何だったのでしょう
主は肉やパンを惜しむ方ではありません。
むしろ、イスラエル人との交わり、その心を求めていらっしゃったはずです。
欠乏の中で、主ご自身を切実に求めるようになることを期待していたのではないでしょうか?
しかし、イスラエル人は主を求めるどころか、不平を言うことで主を否定することさえしてしまいました
主は、それでも忍耐深く、恵みと憐れみに満ちています
「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。・・・」(16:4)
「あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。
あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。」(16:12)
不平を言うイスラエル人に食物を備えることで、主はご自身を
知るようにと接します。
しかし・・・
食料が与えられたら与えられたで、今度はまた主のいいつけを無視します。
「翌朝まで残すな」と言われても、残したので虫がわいて悪臭が漂いました
「6日目は二日分のパンを集めて、7日目には見つけられない」と言われても、7日目に出かけて探す人がいました
このような感じですから・・・
「そのとき、主はモーセに仰せられた。
『あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。・・・』」(16:28)
主が嘆くのも無理はありません
いったいどこまで頑ななのでしょう
私たちの心も、主が憐れんでくださらなければ救いようがないものです。
聖餐式では・・・
「・・・わたしはいのちのパンです。
あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
しかし、これは天から下ってきたパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
わたしは、天から下ってきた生けるパンです。
だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。
またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:48-51)
このように語られた
御子イエスを仰ぎ、その十字架の御業を心に留めて感謝しました。
私たちが救われ、その救いの中に留まり続けられるのは、まさに
主イエスの御業のおかげです。
救いようがない者も、本当に自らの姿に気付いて
心砕かれ、主の憐れみにすがるならば、永遠のいのちに生きることができるのです。