マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

示唆

2009-09-10 18:40:06 | 教会の風景
昨年から季刊誌「牧会ジャーナル」を定期購読しています。
毎号とても興味深く読ませて頂いてます。
最近、2009年秋号を読んでいて、心に留まったことがあります。

Jim Van Yperenという方の著書、Making Peace: A Guide to Overcoming Church Conflictのブックレポート(上智大学文学部教授 大塚寿郎氏による)です。
「和解の教会(1)」というタイトル。
読んでいて、問題の本質により近づく示唆が与えられたように思います。
一部を抜粋して引用してみます。
「・・・全体像が見えないにもかかわらず、部分的な理由で自らの正当性を主張し、自分の責任は見ようとしない。こうした態度が教会全体の構造上の問題を見えなくしてしまう。悪いのは相手ではなく、自分を含めた教会全体の体質なのだ。部分的に対処することでは教会の体質を変えることはできない。・・・多くの教会が、主に従うことで聖化されることの意味と聖霊の働きを見失ってしまっているので、律法主義的になるか個人の気持ちを優先する信仰になってしまうのだとイペレンは見ている。キリストがわたしたちのうちに生きておられると言いながら、じつは自分が中心にある。赦しを信じると言いながら、罪を言い表すこともなく、赦すこともなく、他者を責め、自己弁護に走る。リーダーに従うと言いながら、陰口をたたき、権威に挑戦する。教会に問題があるのは、教会のふりをしているだけだからというイペレンの言葉は厳しい。」


ちょうど、昨晩の祈祷会である教会員の方から質問を受けました。
士師記19章の記事についてでした。
今日、改めて士師記19章を読み返して、他の本も調べてみました。
19:29に記録してあるひとりのレビ人の行為は非常に皮肉なものです。
イスラエル民族全体に道徳的覚醒を呼び掛けながら、自分自身は自己中心で鈍感でした。
当時のイスラエル民族の霊的状態、神の民の中にあった体質そのものが現われているようです。
士師記は次のような言葉で締めくくられています。
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(21:25)


どうか、主がこの時代の教会、鈍い私たちを憐れみ、目を開いてくださいますように。
神の御前で自らの姿を知り、真の悔い改めへと進むことができますように。
主のみこころが何かをわきまえることができますように。

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