マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

行き着くところ

2017-05-02 22:58:06 | 教会の風景
4月の間にほとんど手がつけられなかった課題や仕事にようやく着手。
目下、ゴールデンウィーク明けが提出期限の卒論のテーマの絞り込み、神学校親善ソフトボール大会の主催校としての準備、信徒総会の準備等があります。
その他にも、関わっておきながら、結局名前だけになっている役目もまだいくつかあるので、お役に立てず申し訳ないなぁという思いでいます。
多くの方々に助けられながら、理解して頂きながら、祈って頂きながら、一日一日を送っています。

そんなこんなの日々に格闘しているのですが、それだけに礼拝や祈りの時間は貴重です。
先日の礼拝も、神の御前に静まる幸いなひとときでした。
声と心を合わせての讃美歌や信仰告白。
聖書の朗読や説教、聖餐。
神に招かれて礼拝者のひとりに加えられる喜びを覚えました。




最後に先月の礼拝説教のあらすじを掲載しておきます。

2017年4月 礼拝説教のあらすじ 旧約聖書講解:士師記3章
 (3:1)『主が残しておかれた国民』と言われているように、主は意図的にカナンの先住民を追い払わなかった。それは、(2:20,21)からすると、イスラエルの不従順に対する御怒りのゆえであるし、(3:1)ではイスラエルを試すためとされている。「カナンでの戦いを知らない」世代にとって、カナンの定住生活は生まれながらの環境だ。主の民としての自覚を抱きにくかったのかもしれない。(3:2)「−−これはただイスラエルの次の世代の者、 これまで戦いを知らない者たちに、 戦いを教え、 知らせるためである−−」ここでの「戦い」は実際の戦闘も含むのだろうが、もっと根源的な、つまり信仰上の戦いも含んでのことだろう。諸国民の間にあって主に聞き従うか、が問われた。私たちも主のお許しになられた試練の中で、己の罪深さや弱さを思い知らされるものの、私たちと同じように試みを受けた主イエスに希望と慰めを見いだす(ヘブル2:18; 4:15)。
 イスラエルの歴史のある世代について、(3:12)「そうすると、イスラエル人はまた、【主】の目の前に悪を行った。」と伝えられている。「また〜悪を行った」という表現からは、人間の罪の根深い性質・本質を考えさせられる(3:12; 4:1; 10:6; 13:1)。旧新約聖書は一貫して人間の罪深さを述べている(詩篇14:1-3; ローマ7:18-20 等)。この場合の「悪を行った」とは、『主の目の前に』と言われている。そのとき、主はモアブの王エグロンに力を授けて、イスラエルを苦しめた。主は、ご自分の民を懲らしめ、訓練をするのにあえて異邦の民を用いることもある(イザヤ10:5,6; ハバクク1:5,6 等)。主はすべてのことをご存知で、すべてのことをみこころのままに治めておられる。私たちの人生とその日常一切は、主の目の前にある。迷い出やすい私たちは、日ごとに悔い改めて、主と主のことばに立ち返ろう。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする