この前の日曜日の午後は、教会員有志による話し合い、その後に役員会が行われました。
私たちの教会で定期的に開かれている話し合いでは、前半に学びの時間を設けています。キリスト教の書籍を少しずつ読み進め、お互いに教えられたことを分かち合うスタイルで行ってきました。
今回で『信徒といっしょの牧会』(井出定治著 いのちのことば社 1997年発行)を読み終えましたので、次回から別の書籍になります。毎回のわずかな時間ですが、お互いの牧会や教会への理解と意識が深まっていくことを願っています。
さて、月末になりますので、今月の礼拝説教2回分のあらすじを掲載しておきます。
2019年3月 旧約聖書の講解説教 サムエル記第一 2章1-17節
富や地位は、古代からその人の影響力を測る目安の一つとされてきた。しかし、栄枯盛衰は世の常。ハンナの祈りに(2:4,5)「勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。」とある。彼女は、この世の栄枯盛衰、すべての人の営みに及ぶ神の主権を認め、(2:6-8前半)「主は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、高貴な者とともに座らせ、 彼らに栄光の座を継がせます。」と告げた。また、彼女の祈りには、王、すなわち『主に油注がれた者』についての言及が見られる(2:10)。この当時はイスラエルに王はいない(士師記21:25)ものの、やがて来るべき時に立てられた。今、私たちは、イスラエルの王ダビデの子孫として来られた、キリスト(油注がれた者)のことを知っている。キリストは万物の主権者でありながら仕える者となり、信じる者に永遠のいのちと朽ちることのない真の富をもたらした。このキリストを信じ、神を喜び誇る者でありたい。
サムエルとエリの息子たちという対照的な登場人物から神への奉仕について考えたい。サムエルについて、(2:11)「幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。」とある。もともとは彼自身の意志というより、母ハンナの信仰と誓願のことばのためであった。そうした神の摂理により、「祭司エリのもとで」という環境も整えられ、『主に仕えていた』。幼少期に祭司のもとで学び、働いて、主に仕えたこと(2:18; 3:1にくり返し)は、その後の奉仕に大きく影響を及ぼしただろう。幼少期や青年期に健全な信仰を育むことを考えさせられる(箴言22:6)。教え導く者の存在や健全な教えを学べる環境も大切だ。一方、エリの息子たちについては、(2:12)「さて、エリの息子たちはよこしまな者たちで、主を知らなかった。」と伝えられる。彼らは祭司の息子でありながら、自分の欲望優先で、ひとりの信仰者として主に向かう信仰ではなかった。それは、祭壇でささげるささげ物の扱い、つまり礼拝や奉仕に具体的に現れていた(2:13-16)。聖書は、彼らのしていたことを罪とし、(2:17)「このように、子弟たちの罪は、主の前で非常に大きかった。この人たちは主へのささげ物を侮ったのである。」と伝える。次世代のための環境を整えるとともに、奉仕者としての自己吟味も忘れないでいたい。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。