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仏教の思想10 絶望と歓喜<親鸞>(その1)

2017-05-25 10:13:13 | 仏教思想


 「仏教の思想」による仏教思想の勉強、その10の親鸞、ノート作りが終わりました。

 現役時代から続けている仏教思想の勉強ですが、引退後に本格化、「仏教の思想」(全12巻
インド・中国・日本の各4巻)のノートを作りながら勉強しています。
 
 インド、中国と終って、いよいよ日本、空海さんが終わり、今回は親鸞さんでした。
 ということで、親鸞さんの整理が終わって、その概要を整理してみました。

1.親鸞の略歴
 本の表題、これまでの9巻ではなかなかそれだけで、内容を理解するのは困難ですが、今回の親鸞ではまさに親鸞を語るのにピッタリな表題になっています。
 「絶望と歓喜」まさに親鸞の人生、思想を一言で表せばこうなる気がします。
 この本の冒頭でもそのことが出てきますが、親鸞の信仰、思想を語るとき、それは彼の人生そのものといえそうです。ということでまずは彼の生涯を簡単に整理してみます。

 誕生(0才):承安3年(1173年)京都の下級貴族(日野有範)の長男として誕生。
 出家(9才):養和元年(1181年)京都清蓮院にて得度、叡山にて修行、師は慈円(じえん、天台座主
        1155-1225)。名は「範宴(はんねん)」。
        荘園制度の崩壊の時期で、乱に関係した叔父に連座し、日野家は一家離散となり、
        兄弟はいずれも出家の身となった。
        叡山では20年もの時間を過ごすことになるが、その記録は全く残されておらず、唯一
        親鸞の越後以来の妻恵信尼の「恵信尼文書(えしんにもんじょ)」に叡山で堂僧(諸堂の
        奉仕をする役僧)をしていたとあり、不断念仏会(ふだんねんぶつえ)勤めをしていたものと
        思われる。
 改宗(29才):建仁元年(1201年)叡山を下って、東山吉水の法然を訪れる。
        京都六角堂での有名な「百日参籠」で95日目に聖徳太子の夢告があり、法然のもとに。
        その後100日通い、弟子になる。名は「綽空(しゃっくう)」。
 流罪(34才):建永2年(1207年)法然の弟子の安楽らが起こした院の女官との密会に連座し、流罪に。
        法然は土佐に、親鸞自身は越後(現上越市)に流罪となった。
        時に新仏教であった法然の専修念仏は、旧仏教派からの激しい非難の対象であり、
       朝廷への専修念仏停止の訴えも出ている時期での事件で、後鳥羽上皇の怒りをかうこととなった。
        親鸞は還俗させられ、自身では「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名乗り、非僧非俗の
       生活を送ったという。
 布教(42才):建保2年(1214年)赦免の沙汰をこうむり、赦免3年後妻子を具して関東に入り、
       念仏勧化(かんげ)のいとなみを始める。
        関東での布教活動は稲田(現茨城県笠間市)の草庵(現西念寺内)を本拠地として、常陸(ひたち)
       下総(しもうさ)、下野(しもつけ)の範囲で20年に及んだ。
 帰京(63才頃):関東での教化のいとなみを終え、京都に帰って隠棲の生活に入る。
         なぜ帰京したかはよく分かっていない、諸説あるようだが、やはり年齢的なことが大きかった
        ようだ。当時では63才いえばすでに人生を終えていてもおかしくない年、静かな余生をと、
        親鸞も考えたと思われる。
         しかし、彼の京都での生活は忙しかったようだ、ほとんどの著作もここで書かれている、さらに
        彼の子善鸞の起こした親鸞を裏切る事件(俗に「善鸞事件」)は彼を苦しめるとともに、かれの
        思想にも大きな影響を与えたと思われる。
 永眠(90才):弘長2年(1262年)11月28日、京の寓居にて寂する。

2.親鸞の信仰・思想の背景
 以上、親鸞の生涯をみてみると、一家離散、出家、流罪・還俗、晩年には実の息子の裏切りと、波瀾をもって彩られ挫折と絶望、苦難の人生であったことが知られます。
 また、当時の僧の常識としては許されない妻帯の身での布教活動は決して容易なものではなかったと想像されます。

 親鸞の信仰・思想を考えるとき、この人生の経験を背景として、以下のようなキーワードを上げることができます。
 ① 師法然への傾倒
 ② 妻帯
 ③ 「悪人正機」
 ④ 主著「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」

 親鸞は、京都六角堂での百日参籠の95日目に聖徳太子の夢告により、100日法然のもとに通い、私の学ぶべきものはこれしかないと確信し、法然のもとに入門します。そして、この確信は生涯変わらなかったと言われています。
 「たとえ地獄に落ちようと法然について行く」と。「浄土真宗」の「真宗」とはまさに法然の教えそのものを指しており、彼自身は新しい宗派を起こしたとは思っていませんでした。(浄土真宗の開祖は親鸞ということになっていますが、実質的な開祖は三祖覚如(かくにょ、親鸞のひ孫)と言われています。)

 それほどまで法然に傾倒した親鸞ですが、それでは法然の浄土宗と親鸞の浄土真宗はまったく同じ教え・思想だったのでしょうか?法然の教えには、肉食妻帯を認め、「悪人正機」という思想があったのでしょうか?
 親鸞がどんなに傾倒し、まさに「真宗」と唱えたとしても、その主著「教行信証」などを検証する限り、彼の思想は師法然の思想とは違ったもの、極論するれば、それを否定するものであったともいえそうです。

3.法然までの浄土思想
 そこで、親鸞の信仰・思想を考える前に、法然を中心にそれまでの浄土思想の流れを簡単に整理してみます。
 インドの大乗仏教の教えの一つとしてスタートした浄土思想(阿弥陀信仰)は、中国において、曇鸞・道綽・善導の三人の高僧により成立・確立します。特に善導は「口称念仏(くしょうねんぶつ)」の実践により、阿弥陀仏のいる極楽浄土に行けると人々に広く流布します。(参考:過去記事「仏教思想:中国編(終)」)

 こうした浄土思想・阿弥陀信仰は奈良時代に日本にもたらされますが、当初は鎮魂のための阿弥陀仏として信仰されます。特に聖徳太子一家暗殺による死霊への恐怖から逃れるために信仰されたものと思われます。そして、その鎮魂の役割が空海や最澄の祈祷仏教つまり密教に引き継がれると、阿弥陀信仰はこの世の苦しみや絶望から逃れるための夢の世界、西方浄土を求める信仰へと、その役割を変えていきます。

 その甘美でロマンチックな幻想の世界、西方浄土を描いたのは、平安期の天台宗の僧、源信(げんしん、恵心僧都942-1017)でした。彼は、天台流の止観(心を静めて、仏世界を頭に描く)の手法で阿弥陀浄土の世界を想像する行を説きます。しかし、その止観の行は必ずしも一般的には容易な手法ではありませんでした。また、そのロマンチックで幻想的な世界は、現実の苦難な世界に生きる一般の人々には、そこまでの余裕を持てる世界でもありませんでした。

 人々が源信の阿弥陀世界に不満を持っていた時期に登場したのが法然(1133-1212)でした。法然は説きます。「口でナムアミダブツと唱えればよい、誰でも極楽に行ける」と。
 叡山に学んだ法然は、「知恵第一」とのうわさをとる大秀才として有名でした。時は混乱の時代、末法の時代、もはや今の時代には「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」しかないと人々に説きます。大秀才法然のこの教えに人々は狂喜し、法然は生き仏と崇められます。

 法然は善導(中国禅の高僧)一辺倒だったと言われています。善導の著『観経疏(かんぎょうしょ、『仏説観阿弥陀経』の注釈書)の「口称念仏(くしょうねんぶつ)」の勧めから、やがて法然独自の「専修念仏」の思想を導き出します。この時期は、彼が主著『選択集(せんじゃくしゅう)』を書いた時期(66才頃)で、念仏仏教に対する旧仏教派の批判が激しくなっていた時代でした。同時に、この時期に親鸞は法然の弟子になっています。つまり、当然ながら法然は新しい思想を導き出した先生、親鸞はその生徒という関係に両者は立つことになります。そしてその立場の違いが、生徒としての親鸞に先生である法然とは違った考えをもたらすことになります。

 本日はここまでとします。次回は本題である「4.親鸞の信仰、思想とは」です。しばらくお待ちください。