連句通信131号2009年5月10日発行
幻想の連歌師 紹巴 (本能寺の変を巡って) 坂 本 統 一
汝ヤ知ル都ハ野辺ノ夕雲雀 上ガルヲ見テモ落ル涙ハ
(あなたは知っていますか。都が野原と化して夕雲雀が飛び上がるのを見ても、涙がこぼれ落ちるのを)
応仁の乱で、焦土となり荒れ野原と化した都の在り様を目のあたりにして、歌われた歌です。「応仁記」によれば、飯尾彦六左衛門尉がこの一首を詠じたとあります。この人物、この歌の作者として名を残しているのみで、歌人としての業績も分りませんし、生没不詳、どういう出自、身分、人柄、生き方をしたのかなど、まったく知られていません。
しかしこの歌、戦争の空しさ悲惨さを語るとき、かならず引き合いに出され、わずかにこの一首によって、飯尾彦六左衛門尉の名は、普遍的反戦歌の作者として不滅の光を放っています。
こういう歌に触れるとき、この種の文芸とは一体なんなのか、われわれの連句は何ができるのかと、つくづく考えさせられます。そうしてわたしは、この彦六という人は、同時代を生きた連句の原点ともいうべき、連歌の完成者と呼ばれている連歌師 宗祇の別の顔で、何かの事情により彦六の変名によって発表された歌ではないかと、ひそかに想像して楽しんでいます。
応仁の乱より後の戦国動乱、その後の天下統一に向かう、信長、秀吉の時代に、宗祇連歌の伝統を引き継ぎ、天下第一の宗匠として活躍した、当時としては高名な連歌師に紹巴(じょうはと読む)という人がいます。しかし現在では、連歌師としてのその事跡、作品作風、実績評価など、一部の好事家、研究者をのぞいて、その名前さえ人々の記憶のそこに、沈んでいるように思われます。
連歌師としての存在感はともかく、天正十年(1582)夏の歴史的大事件、明智光秀が主君の織田信長を、京都の本能寺に襲って討ち取った、本能寺の変の前夜、光秀が戦勝祈願のために主催した、愛宕百韻連歌興行に、宗匠として参加した連歌師紹巴は、とても有名です。
日本歴史の出来事のなかで、本能寺の変ほど訳の分らない事件はありますまい。信長軍団では筆頭の地位にあった光秀が、自分を取り立ててくれた信長を、なぜ討たなければならなかったのか、思いつきなのか、予定の行動なのか、単独犯行なのか、それとも誰かそうさせた人々が存在したのか(黒幕使嗾説)、実にさまざまな議論研究がくりかえされてきましたが、いずれもこれはという、誰もが納得できる結論は、現在でも得られていないようです。
わたしは元来、本能寺の変に興味があり、その理由についても、使嗾者黒幕説についても、わたしなりの見方がないわけではありません。しかし、宗匠とはいえ一介の地下の連歌師である紹巴が、天下国家の在り方を左右したこの事変に、深く関わっていたのではと気付かされたとき、紹巴という人物に関心を持つようになりました。
愛宕百韻連歌の冒頭三句
発句
ときは今天が下しる五月哉 光秀
脇
水上まさる庭の夏山 行祐
第三
花落つる池の流れをせきとめて 紹巴
光秀の発句の内容ををどう取るかは、それほど単純ではありませんが、今日行われている通常の解釈は、「時は今まさに、土岐の一族である自分が天下を治めるべき季節の五月となったのである。」、というものです。
これによれば、光秀の意志は、天下人になることであり、主君に対するその逆意は明らかです。そこで当然、秀吉との山崎の合戦で光秀が敗死した後、紹巴は、光秀の叛意を見過ごしたという理由で、秀吉の尋問糾明を受けることになります。
巷間伝えられている話では、紹巴は、第三句で「流れをせきとめて」と、光秀の翻意を促したが聞きいれられなかったと言い、当日の懐紙を差し出した。それによると発句は最初、「ときは今あめが下なる五月かな」とあり「下なる」が一直されて現在よく知られている「下しる」の句になっていたという。
しばらく怪訝な面持ちをしていた秀吉は、これは誰が直したのかと聞いたところ、紹巴は終始無言だった。すると紹巴の顔をじっと見ていた秀吉は、そうかそうかと笑い出し、何の罪にも問わなかった。本能寺の変後の、紹巴に関する後日談です。
余談ですが、連句の練達者、多少とも連句に興味のある諸兄姉は、句としてはどちらが優れていて、いずれが光秀の本当の句だと思われますか。句会当日はもちろん前後とも五月雨の頃で、句会参加者の一行は雨を冒して泥濘の道を愛宕山まで登ったのです。人々の姿を想像すると、光秀は当然ですが、紹巴にまでも何か必死なまでのせっぱ詰まったものを、感じさせられます。
光秀の真意はどこにあり、紹巴の立場はいかなるものだったでしょう。わたしには、紹巴は、光秀の立場の同調者か、いやむしろその使嗾者側の一員だったように思われます。そうすると、紹巴が秀吉から問責を受けた場面は、世間話にあるような悠長なものではなく、生か死かの斬罪の瀬戸際に立った緊迫した状況だったことが知られます。
もっともこの、秀吉が紹巴を糾明した話は眉唾もので、事実としての形跡は見あたりません。おそらく京都の町衆を中心とした人々によって、うわさ話として広められ、語られたものというのが真相ではないかと想像されます。紹巴はもちろんだが、秀吉にとっては、光秀謀反というのはまことに都合のいい内容なのです。紹巴は当然だが、秀吉もこの事件の真実を知っていた、乱世とはそういうものであろう。
結局、紹巴はいかなる咎めも受けることはなかった。ここに戦国乱世を連歌師として生き抜いた、紹巴のしたたかな姿をみることができます。
締めくくりに、わたしなりの本能寺の変の真相を述べておきます。まず織田信長が天皇動座を企図した(天皇動座説、この説はまだ目にしたことがない)。この計画を実行しようと、京都周辺にいた最大の軍団、光秀軍を信長が本能寺に呼び寄せた。企てを察知した(光秀が知らせたか)朝廷側が、光秀に命じ機会を捉えて、信長を誅殺した。この間、公家、武将たちとも親密な関係にあった連歌師の紹巴は、相互の連絡の役割を果たした。(有力な京都の町衆であった紹巴には、都が衰都と化すことは我慢ならなかった)これが本能寺の変の「信長公記」「愛宕百韻連歌」などから推論できる真実だと思われます。
うわみずざくら
二句表「パスポート」
パスポート期限切れなり弥生尽 直子
穀雨の過ぎて古き街並 明子
ウ
幼な児の猫とたわむる縁側に 統一
ラムネをくれるやさし叔母さん 政志
ミシン踏み簡単服が出来上がり 薫
るんるんるんと買物にでる 實
月面に響きて聞こゆ鐘の音 六魚
テムズ行き交う船に秋の灯 直子
ナオ
窓の外紅葉かつ散る二人づれ 明子
温泉旅館横眼でにらみ 統一
羽布団もらす溜息きりもなし 政志
手水を使う霜枯の月 薫
給付金いっぱい飲んで景気付け 實
五人男がチャンチャカノチャン 六魚
ナウ
肩組んで長屋総出の花吹雪 明子
真白に洗う春泥の靴 執筆
平成21年4月19日 於関戸公民館第3学習室
二句表「目刺し」
留守番に目刺し焦がした昼餉かな 薫
鼻をひくひく子猫親猫 實
ウ
惜しまれて校長さんは停年に 六魚
祭太鼓の撥捌き良し 直子
蚕豆で一杯飲んで肘枕 明子
夢に出てきた閻魔大王 統一
はしなくも無住の庵照らす月 政志
森のかなたを雁渡り行く 薫
ナオ
旅の宿何も言わずに寄り添いて 實
生まれたなりでならすムジーク 魚
火の用心せよと母から来るメール 直子
月を眺めて襟巻きを編む 明
玄関にかんがるー居てこんばんわ 一
暇もてあますいねむりの爺 志
ナウ
バイパスを入れて元気に花疲れ 實
ふららこ揺れるやさしそよ風 執筆
平成21年4月19日 於関戸公民館第3学習室
イカリソウ
二句表「誤植ある」
誤植ある辞書の重さや春惜しむ 六魚
紋白蝶のふはり舞ふ窓 直子
ウ
しんと建つ六角堂に影なくて 藤子
風鈴売りの間の抜けた声 薫
母と子が冷やし西瓜を切り分ける 佳子
ざわざわざわと揺れる笹原 政志
信玄の弓張り月のなかを来る 祐
若衆集ひ回す利き酒 明子
ナオ
ハロウィン仮面の中の君が好き 直子
マントの下は入墨の肌 六魚
ざぼん割く指の白さが眩しくて 藤子
年末賞与月に透かしつ 佳子
愛 車駆り富士の裾野をひとめぐり 政志
インフルエンザ水際で阻止 祐
ナウ
ひっそりと流れる小川花溢れ 明子
座敷童に逢ふものどけし 直子
09年5月2日 関戸第二会議室
5月はゴールデンウイークがあり家族への奉仕?で大変忙しい思いをされる人もいるのではないでしょうか?更新が送れまして....