連句通信133号2009年7月30日発行
ゴゼンタチバナ(秋田駒ヶ岳にて)
今号は謡がご趣味の一つでもある實さんに一文をお願いしました。
梅原猛といえば柿本人麻呂や聖徳太子のことが取り上げられている著作が
ありますが、ここでは太子の家来の河勝が出てきます。謡の中の怨霊物とは?
能の起り 梅田 實
お能は誰によりはじまったか?観阿弥世阿弥が能を確立した作者位の事は知っていたがその始まりは?
偶然梅原猛の「うつぼ舟」を図書館の返却棚に見つけて、そこらへんのことが世阿弥の風姿花伝に書いてあることを知った。
河勝の出自 欽明天皇の御代初瀬川に洪水があり川上から一壷が流れ着いた。三ノ輪明神の杉の鳥居の傍らで殿上人がこの壷を取り上げたところその中に玉の如き赤子がいた。 このことを天皇に奏上すると、天皇のその夜の夢に赤子が現れて、赤子は私は秦の始皇帝の生まれ変わりであり縁あって日本の国にやってきたと言ったというのである。 天皇は壺の中の赤子こそ夢に見た赤子であると思い殿上に召された。 成人すると才知優れ十五才で大臣の位に上り秦の姓を賜った(風姿花伝)
河勝の芸 聖徳太子の代に乱れることがあった。 そこで太子は河勝に命じて六十六番の[物まね]とその面を作って、橘の内裏の紫宸殿にて演ぜさせたところ、天下は治まり国は鎮まった。 これは神楽であったが神の偏を省いて旁を残して日暦の申なるゆえに[申楽]と名付けた(風姿花伝)
能は川勝一族により大和に金春、宝生、観世、金剛の四座がたち徳川初期に喜多が加わり現在至る。
うつぼ舟 秦河勝は、欽明、敏達、用明、祟峻、推古、聖徳太子に仕え、この芸をば子孫に伝え、うつぼ舟に乗って難波の港から西の海に漂い播磨の国坂越の浦についた。そこで諸人に憑き祟りをなしたので里人はこの変化のものを神と崇め祀ったので国は豊かになった。‘(風姿花伝)
うつぼ舟に乗って漂ったのは聖徳太子の一族が権力闘争の結果滅ぼされ、後ろ盾を失って河勝は放逐されたか逃げ出したかだろうと梅原猛はいう
うつぼ舟の漂着地の兵庫県赤穂市坂越生島の大避神社は河勝を祭るが河勝の祟りで生き島の動植物をとると必ず祟られるという
今も忠臣蔵の悲劇は城の普請のためと言ってお殿様の命令で生島の大木を切って河勝の怨霊に祟られたのだと土地の人は言っている由(梅原氏の現地で聞いた話)
能の大成者世阿弥は複式夢幻能を多く作った。 複式夢幻能はこれを図式的にいえば、前段に怨念を残して成仏できないシテがこの世の人の姿で現われてワキの旅僧と言葉を交わし消える。後段にシテは成仏できないで苦しんでいる幽霊となって現れ、 ワキに恨み辛みを訴えるが最後は仏の力にすがって成仏するというものである。
うつぼ舟は河勝が乗った様に怨念を残して死んだ変化妖怪が乗って現れる舟である。うつぼ舟のでてくる能に鵺がある。鵺は動物だが能では草木国土悉皆成仏といい怨念をもち成仏できないでいる者を救うことでは人間動植物の区別はない。
世阿弥は後継者元雅を殺されまた自身も足利義満により晩年佐渡に流される。世阿弥もうつぼ舟に乗った。 世阿弥の書いた複式夢幻能のシテは成仏できたがさて世阿弥は成仏したろうか?
(平成21年7月25日 記)
ハクサンチドリ(秋田駒ヶ岳にて)
二句表「辣韮むく」 直子 捌き
マンションに勝手口なし辣韮むく 古賀直子
ショートパンツもいまふうの丈 宮澤佳子
ウ
新宿はそろそろSALE始まりて 玉木 祐
<どん底>賑う七夕の酒 おおた六魚
予兆とは思いたくない赤い月 山田藤子
竈の隅にくつわ虫聴く 藤尾 薫
この所友の訃報が相つぎて 梅田 實
一途な性格示す顔立ち 峯田政志
ナオ
惚れたのは美貌じゃないよハートだよ 薫
寒月の中くどきくどかれ 實
聖堂の壁画おごそか年の暮 祐
警察犬の走る電光 佳
駄々っ子の大泣きをして乗りそこね 藤
いつか握る手夢と金銀 魚
ナウ
悠然とカメラ構える花の門 志
今たけなわに曲水の宴 執筆
平成21年7月4日首尾 於 関戸公民館創作室
(ギンリョウソウ)
二句表「帰りなん」 膝おくり
帰りなん蛍袋のともる里 藤尾 薫
連子の窓に小さき風鈴 山田藤子
ウ
相談に脳科学者を迎えいて 峯田政志
顔爽やかにパソコンを開け 梅田 實
ほかほかの芋ご飯盛り月の膳 宮澤佳子
芸術祭に自画像が出て 玉木 祐
まんまるの眼鏡ステッキパリ土産 古賀直子
サイレントシネマ肩よせて観る おおた六魚
ナオ
叉の名を恋文横町代筆屋 藤
餃子飯店酔える凍月 薫
着ぶくれてお国訛りを声高に 實
じょんがら節を唄う瞽女さん 政
猫の名を天空(sky)と名づけマスコット 祐
待ち受け画面自慢話で 佳
ナウ
花霏々と小野小町の影に降り 六
蜜蜂追ってくぐる山門 直
2009年7月4日 聖蹟桜ヶ丘関戸公民館
ゴゼンタチバナ(秋田駒ヶ岳にて)
今号は謡がご趣味の一つでもある實さんに一文をお願いしました。
梅原猛といえば柿本人麻呂や聖徳太子のことが取り上げられている著作が
ありますが、ここでは太子の家来の河勝が出てきます。謡の中の怨霊物とは?
能の起り 梅田 實
お能は誰によりはじまったか?観阿弥世阿弥が能を確立した作者位の事は知っていたがその始まりは?
偶然梅原猛の「うつぼ舟」を図書館の返却棚に見つけて、そこらへんのことが世阿弥の風姿花伝に書いてあることを知った。
河勝の出自 欽明天皇の御代初瀬川に洪水があり川上から一壷が流れ着いた。三ノ輪明神の杉の鳥居の傍らで殿上人がこの壷を取り上げたところその中に玉の如き赤子がいた。 このことを天皇に奏上すると、天皇のその夜の夢に赤子が現れて、赤子は私は秦の始皇帝の生まれ変わりであり縁あって日本の国にやってきたと言ったというのである。 天皇は壺の中の赤子こそ夢に見た赤子であると思い殿上に召された。 成人すると才知優れ十五才で大臣の位に上り秦の姓を賜った(風姿花伝)
河勝の芸 聖徳太子の代に乱れることがあった。 そこで太子は河勝に命じて六十六番の[物まね]とその面を作って、橘の内裏の紫宸殿にて演ぜさせたところ、天下は治まり国は鎮まった。 これは神楽であったが神の偏を省いて旁を残して日暦の申なるゆえに[申楽]と名付けた(風姿花伝)
能は川勝一族により大和に金春、宝生、観世、金剛の四座がたち徳川初期に喜多が加わり現在至る。
うつぼ舟 秦河勝は、欽明、敏達、用明、祟峻、推古、聖徳太子に仕え、この芸をば子孫に伝え、うつぼ舟に乗って難波の港から西の海に漂い播磨の国坂越の浦についた。そこで諸人に憑き祟りをなしたので里人はこの変化のものを神と崇め祀ったので国は豊かになった。‘(風姿花伝)
うつぼ舟に乗って漂ったのは聖徳太子の一族が権力闘争の結果滅ぼされ、後ろ盾を失って河勝は放逐されたか逃げ出したかだろうと梅原猛はいう
うつぼ舟の漂着地の兵庫県赤穂市坂越生島の大避神社は河勝を祭るが河勝の祟りで生き島の動植物をとると必ず祟られるという
今も忠臣蔵の悲劇は城の普請のためと言ってお殿様の命令で生島の大木を切って河勝の怨霊に祟られたのだと土地の人は言っている由(梅原氏の現地で聞いた話)
能の大成者世阿弥は複式夢幻能を多く作った。 複式夢幻能はこれを図式的にいえば、前段に怨念を残して成仏できないシテがこの世の人の姿で現われてワキの旅僧と言葉を交わし消える。後段にシテは成仏できないで苦しんでいる幽霊となって現れ、 ワキに恨み辛みを訴えるが最後は仏の力にすがって成仏するというものである。
うつぼ舟は河勝が乗った様に怨念を残して死んだ変化妖怪が乗って現れる舟である。うつぼ舟のでてくる能に鵺がある。鵺は動物だが能では草木国土悉皆成仏といい怨念をもち成仏できないでいる者を救うことでは人間動植物の区別はない。
世阿弥は後継者元雅を殺されまた自身も足利義満により晩年佐渡に流される。世阿弥もうつぼ舟に乗った。 世阿弥の書いた複式夢幻能のシテは成仏できたがさて世阿弥は成仏したろうか?
(平成21年7月25日 記)
ハクサンチドリ(秋田駒ヶ岳にて)
二句表「辣韮むく」 直子 捌き
マンションに勝手口なし辣韮むく 古賀直子
ショートパンツもいまふうの丈 宮澤佳子
ウ
新宿はそろそろSALE始まりて 玉木 祐
<どん底>賑う七夕の酒 おおた六魚
予兆とは思いたくない赤い月 山田藤子
竈の隅にくつわ虫聴く 藤尾 薫
この所友の訃報が相つぎて 梅田 實
一途な性格示す顔立ち 峯田政志
ナオ
惚れたのは美貌じゃないよハートだよ 薫
寒月の中くどきくどかれ 實
聖堂の壁画おごそか年の暮 祐
警察犬の走る電光 佳
駄々っ子の大泣きをして乗りそこね 藤
いつか握る手夢と金銀 魚
ナウ
悠然とカメラ構える花の門 志
今たけなわに曲水の宴 執筆
平成21年7月4日首尾 於 関戸公民館創作室
(ギンリョウソウ)
二句表「帰りなん」 膝おくり
帰りなん蛍袋のともる里 藤尾 薫
連子の窓に小さき風鈴 山田藤子
ウ
相談に脳科学者を迎えいて 峯田政志
顔爽やかにパソコンを開け 梅田 實
ほかほかの芋ご飯盛り月の膳 宮澤佳子
芸術祭に自画像が出て 玉木 祐
まんまるの眼鏡ステッキパリ土産 古賀直子
サイレントシネマ肩よせて観る おおた六魚
ナオ
叉の名を恋文横町代筆屋 藤
餃子飯店酔える凍月 薫
着ぶくれてお国訛りを声高に 實
じょんがら節を唄う瞽女さん 政
猫の名を天空(sky)と名づけマスコット 祐
待ち受け画面自慢話で 佳
ナウ
花霏々と小野小町の影に降り 六
蜜蜂追ってくぐる山門 直
2009年7月4日 聖蹟桜ヶ丘関戸公民館