<イラク戦争の再開 >
昨年以来、オバマ政権にとって、イスラム国を消滅させることが緊急課題となっており、オバマ大統領は2月初旬、地上軍の派遣の承認を議会の求めた。これまでの空爆に加え地上軍を派遣することは、戦争開始に等しい。地上軍はいったん出動させると、簡単には戻せない。オバマが独断で出兵せず議会に同意を求めたのは、納得できる。アメリカ国民の多数が反対し、議会でも反対と賛成が拮抗(きっこう)している。
2月11日、オバマは下院に宛てて書簡を出し、自分の意図を説明した。彼の考えていることがよくわかる。
======<オバマの議会への書簡>===========
イスラム国はイラクとシリアを不安定にしており、この地域の米国人と米国の施設に脅威を与えている。
私が要求した武力行使権限には、大規模な地上軍による長期間作戦は含まれていない。私は、アフガニスタンとイラクで行ったような戦争をやるつもりはない。そのような戦闘は、米軍ではなく、地元の軍隊が行なうべきである。
私が求めているのは、特定の場合に限っての地上戦である。例えば、有志連合と米国の人員を救出しなければならない場合である。迅速なに対応が対応が求められる。また、ISISの中核である指導部を壊滅させることが、最も効果的である。この重要な軍事作戦は、特殊部隊が行わなければならない。
私は原則として、地上軍による軍事作戦を意図しておらず、想定していない。予定しているのは、情報を収集し、地元の軍隊に提供することである。また作戦計画について彼らに助言し、その他側面から援助するつもりである。
議会に提出した原案には書かれていないが、私は議会と国民と協力しながら、2001年の武力行使権限授与法を改め、最終的には廃止する決意でいる。
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オバマ大統領は、少人数の特殊部隊にとどめたいと願っているようだが、既に3千人の米兵がいるのに足りないというのだから、わずかなな増兵で足りるだろうか。事実上今回の決定は地上軍を出すという決定であり、明確な方針転換である。ブッシュが始めた戦争はいったん終結し、イラク政府は米軍の撤退を求めた。オバマ大統領は、戦争再開を決定し、議会に同意を求めた、ということである。
ISISの大進撃以後、3100名の米兵が軍事顧問としてイラクに派遣された。これだけでは足りず、師団規模の兵数にする計画である。オバマは小規模の作戦というが、現地の米軍が考えていることは、とりあえず一万人に増やし、必要に応じてさらに増強することである。
作戦計画の助言だけなら、すでにイラクにいる3100名で足りる。米軍は最前線で戦っている。だから、人数が足りないのである。彼らが危険に陥っても、イラク兵は頼りにならない。米兵ならば危険を冒しても助けに来る。しかし3100人の米軍事顧問は各地に散らばっている。イラク全土を3100人では、カバーできない。彼ら軍事顧問が援軍を望んでいる。書簡で述べられている「人員を救出」とは、第一に彼ら軍事顧問の救出のことだ。そのための増派であり、戦争のエスカレーションである。
米地上軍がイラクとシリアに派遣されることになる。オバマは、シリアに対しては長い間、空爆さえためらっていた。しかし今年9月、シリアに対する空爆を開始した。今回はイラクとシリアに対して地上軍の派遣を決心した。情勢が大きく変化している。イラクもシリアも分裂が固定化し、誰にも収拾できない。オバマは小規模な地上軍を投入することで、何とか切り抜けようとしている。
<モスル作戦どころではなくなった米国>
イラクではISISからモスルを奪回することが重要課題となっている。イラクで炎熱の夏に作戦をすることは困難であり、春の間に勝利しなければならず、時間が迫っている。
ところが、前哨戦ともいえるティクリート戦で、政府軍は人数が少なく、主力は、シーア派民兵軍であることがわかった。シーア派民兵軍を指揮しているのは、スレイマニ将軍以下のイラン人将校である。正規軍にもイランに忠実な人間が配置されており、スレイマニ将軍の影響下にある。
<イランの支配下にある内務省軍>
2010年5月、内務省の作戦室長はバドル旅団の司令官モハメド・シャラシュだった。バドル旅団はシーア派民兵の中心的な部隊である。内務省と内務省軍・緊急展開部隊はバドル旅団の人間で固められている。
イラン国外軍の総帥、スレイマニ将軍
(写真) newkhaliji.com
軍を掌握できないアバディ首相に実権はなく、イラクの真の権力者はスレイマニ将軍だ、と言われる。
ISISと戦うことも必要だが、イランの影響力を排除することが先決にも思え、米国にとってイラクは手に余る難題になった。
ISISとスンニの同盟、イランとシーアの同盟、それにクルドの3者が、支配地獲得戦争をやっている。イラクという国は消滅に向かっている。
<失敗国家となったイラク>
イラクでは、勢力分布に従い、新たな国境線が生まれようとしている。
(地図)abagond
事の始まりは、2003年のイラク戦争で米国がフセイン政権を倒したことにある。イラクはモザイク国家であり、いったん国家の枠組みを破壊すると、とりかえしがつかない。2003年米軍が侵攻してきた時、国民の心は政権から離れており、部隊の士気は低かった。徹底抗戦した部隊は少なく、米軍の勝利は早かった。
しかし、「フセイン政権を倒すことができても、そのあとが難しい」という分析は正しかった。イラクは、クルド・スンニ・シーアの3民族からなる。さらにいくつかの小さな少数民族がいる。これまで政権を担当してきたスンニ派が、無力な少数民族に転落してしまった。彼らは、今まで最も恩恵を受けてきたので、その落差は大きい。しかも彼らは絶滅の危機に追い込まれてる。
今年3月、政府軍がティクリートのISISを攻撃した時,スンニ派の家々が破壊された。戦闘によるものでやむを得ないとはいえ、住民は家を失う。しかし破壊はそれにとどまらなかった。戦闘終了後に、スンニ派の住居の4分の1が破壊された。シーア派の復讐の念が、スンニ派を民族浄化の対象にしつつある。こうなると、追い詰められたスンニ派は最後の一人まで戦うしか道はない。ルワンダの虐殺と同じ構図である。多数派のフツ族が新たに権力の座につき、それまで支配民族だったツチ族が虐殺された
<平和で安定していた1970年代>
現在は、血で血を洗う内戦へ突入しているイラクだが、1970年代のイラクは、今では考えられないほど、安定していた。中東では、傑出した理想社会だった。イランとの戦争がなければ、良い時代が続いていたかもしれない。
<バクル大統領>
1968年、バース党は無血革命に成功し、軍人でありバース党員であるアブー・バクルが大統領に就任した。バクル新大統領の時代に、イラクの経済は急速に成長した。革命前は歳出の約90%を軍事費に投入していたが、バース党政権は農業と産業の育成を優先した。1972年に石油を国有化し、政府の歳入が急増した。バース党は社会主義政権であり、増収の多くを、国民の生活向上に向けた。湾岸の産油国は豊かであるが、恩恵を受けているのは、王家の一族のみである。これらの国々と異なり、イラクでは、層の厚い中産階級が出現した。
<国民が尊敬した副大統領サダム・フセイン>
バクル大統領のもとで、サダム・フセインは副大統領だった。彼はバース党の最大の実力者となり、民政部門では、実質的に大統領だった。この時期、フセインは「副大統領殿」と呼ばれて、国民から敬愛された。後にスターリン・ポルポトと並ぶ残酷な圧制者となり、国民の80%から憎悪されるようなったが、別人のようである。
フセイン政権崩壊後、イラクでは反乱容疑で逮捕された者の拷問ビデオが出回った。このような拷問にあったり、処刑された者の人数は数えきれない。
<フセインの恐怖政治>
国連人権委員会が、イラクの人権状況について、1996年に次のように報告している。
「家族の誰かの裏切り行為を知ったら、バース党の地元事務所に通報しなければならない。そうしなければ、家族は家を追い出され、政府の食糧配給を無効にされる」。
裏切り行為とは、反政府地下組織に加盟することにかぎらない。大統領や政府を批判するだけで、反逆罪である。大統領が夫を密告した妻を称賛したとか、学校の教師が生徒に家庭での親たちの会話を質問するとか、密告制度があらゆるところに張り巡らされている」。
イラク国民にとって、政治を語ることはタブーとなった。
2003年バグダッドが米軍によって占領され、フセイン政権が倒れた時、国民は心から喜んだ。
イラクが国民にとっての牢獄になったのは、イランとの戦争後である。1970年代、フセインは国民から尊敬され、バビロニア帝国の再興を夢見ていた。
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