ティクリートの大統領宮殿
(写真)CNN
イラクはイランに乗っ取られたと考えて、サウジアラビアはうろたえている。1991年の湾岸戦争の直前、クェートを占領したイラク軍が、隣接するサウジアラビアの油田地帯に侵攻するのではないか、と恐れられた。実際に、イラクの戦車群がサウジとの国境付近に集結した。米軍の戦車に対する防衛体制だと、後でわかった。
現在サウジアラビアはイランを恐れている。
イギリスの女性外交官エマ・スカイも、イラク政府はイランの支配下にある、と憂慮している。彼女は、2003年のイラク戦争後、バグダードで占領行政に携わった。占領軍の司令官だったオディエルノ将軍の補佐官を務めた。開戦前、エマ・スカイは戦争に反対していた。イラク攻撃は、正当性がない侵略戦争だと批判した。しかし、彼女は2011年の米軍の撤退に、反対した。その理由は、「米軍の役割が変わった。内戦が開始されてしまったので、止め役としての米軍が消えてしまえば、取り返しがつかない事態になる」と予感したからだ。2008年にフセイン残党のテロが鎮静化したのは、一時的なものだ、と彼女は見ていた。彼女の予感は的中した。2014年以後、イラクは再び内戦に突入した。
イラク政府に対するイランの影響力が圧倒的になるのは、2014年のISISの大攻勢がきっかけである。ISISはシーア派の地域を制覇する勢いだった。そうなれば、由緒あるシーア派のモスクが破壊されるかもしれない。シーア派の信徒の多数が虐殺されるかもしれない。こうした恐怖を前に、冷静なシスターニ師といえども動揺した。この危機を救ったのがイランである。
この時以前は、イラクのシーア派はイランから自立していた。イランの援助を受けながらも独立性を保っていた。
イラン脅威論を念頭に置きながら、ティクリート戦の最終段階を振り返ってみたい。
チグリス川の対岸が戦場
(写真) i2.cdn.turner.com
<米国に空爆を要請>
アバディ首相は、シーア各派に相談せずに、米国に空爆を依頼した。空爆の依頼は軍事的必要性によるものではなく、親米派の巻き返しの策謀のように見えた。バドル軍の指導者ハディ・アメリは、空爆要請に反対していた。バドル軍は最大のシーア派民兵軍である。「米国を信頼するのは、蜃気楼を現実と思い込むようなものだ」。
しかし発表された犠牲者の数だけでも1000名を超えており、犠牲を少なくして勝利するという判断は、妥当だった。
3月15日、サイディ将軍が、米国に空爆と情報収集を要請するよう、イラク国防相に求めた。アブドゥルワッハーブ・サイディ将軍はティクリート戦の司令官である。
3月22日、アバディ首相はオバマ大統領に航空支援と情報収集を要請した。
イラクの要求に対し、米国防総省は条件を出した。その条件について、米中央軍のオーステイン司令官が、上院軍事員会で証言している。
(オーステイン司令官の証言) 3月26日
「シーア派民兵軍はティクリートを奪回することに失敗した。その結果、イラク政府は、米国に空爆を要請してきた。米国は、シーア派民兵が撤退するという条件で、空爆を引受けた。私は、情報収集のための飛行を開始する前に、シーア派民兵を撤退させるように要求した。我々は、イランが指導するシーア派民兵と共同作戦をするつもりはない。
戦闘終了後、シーア派民兵をテイクリート市内に入れない、という条件も、イラク政府は了承した」。
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オーステインは明言していないが、米国はイランのスレイマーニ将軍の退去を求めた。
<空爆開始>
空爆は3月25日の深夜に始まった。8時間30分続き、翌26日の明け方に終了した。出撃回数は17回である。朝になると、米軍にかわってイラク空軍が爆撃を続けた。
この後30日までに、米空軍と連合軍はさらに28回の空爆を行った。
空爆は多数のシェルターを破壊した、とマガーグ米大統領副特使が語った。
大統領宮殿は徹底的に破壊された。2003年のイラク戦争の時をしのぐ破壊だった。サラフディン県の庁舎ビルの壁は跡形もなく吹き飛ばされ、骨組みしか残っていなかった。2階建ての民家は、土台しか残っていない。民家を吹き飛ばすことは容易でも、数が多い。どの家に潜んでいるかわからない。都市ゲリラ戦を困難なものにする。
この間、幹部を含むISISが多数殺害された。
大統領宮殿
(写真)iraqinews
(写真の説明) 遠距離なので破壊の跡がよく見えない。構造の大部分は残っているが、CNNの動画では、構造が破壊された部分が写っていた。ティクリートの大統領宮殿は宮殿群であり、冒頭の写真のように、方角によって異なって見える。
<シーア派軍は撤退要求を無視>
シーア派軍は米国の要求にもかかわらず、撤退しなかった。オベイディ国防相は米国の要求を完全に無視した。「シーア派民兵を撤退させるつもりはない。これまでどおり戦いを続ける」と語った。
<米空軍の参戦は不要>
しかしシーア派民兵3グループが撤退した。米国の条件を受け入れたのではなく、米国の参戦に反対し、抗議行動として、戦線から離脱した。「米軍の空爆は不要だ。自分達だけでやれる。米軍の参戦は勝利を横取りするものだ」と米国を批判した。2グループは、最近までイランの将校が指導していた。
撤退したアサイブ・ハクの広報官は「米国は信用できない。以前、米国は我々の部隊を爆撃し、ISISには補給物資を投下した」と言った。バドル軍の指揮官も米国の立場を批判した。「我々も撤退するかもしれない」。
<28日、バドル軍が撤退>
シーア派の大部分は、26日と27日は戦ったが、28日、ほとんどのシーア派民兵が戦線を離脱した。シーア派が宿泊していた大学の敷地は、静けさにおおわれた。特殊部隊と肩を並べ最前線で戦っていたキターブ・アリ・イマーム軍の兵舎も、空っぽだった。イマーム軍を指揮しているズバイディ少佐は「上からの命令だ」とワシントンポストのモーリス特派員に語った。
イランのスレイマーニ将軍もイランに帰った。
ほとんどの民兵が去ってしまうと、イラク軍の司令官たちは落ち込んだ。前日、たまたま南部からシーア派の宗教指導者が訪問してきたので、司令官のひとりが「民兵たちに、とどまるよう説得してくれ」と頼んだが、無駄だった。
戦線に復帰するよう交渉
(写真)AP
ティクリート作戦の司令官であり、特殊部隊を率いているアブドルワッハーブ・サイディ中将は語った。「今、彼らが最も必要な時だ。兵力が足りない。彼らはこれまで多くの勝利をもたらしてきた」。
<連邦警察と特殊部隊による勝利>
3月30日、アバディ首相はテクリートのISISは壊滅した、と報告した。
戦車・重砲・連射砲を持つ、シーア派軍の中心部隊は、最終局面で姿を消していた。
最後の3日間は連邦警察と特殊部隊が中心になって戦った。特殊部隊は黄金師団と呼ばれ、ティクリート戦の当初から最前線で戦った。最後の3日間、イラク軍は適切な作戦計画と戦術に従い、規律ある戦いをした。イラク軍の戦闘力が向上したことを示した。
最後の3日間戦ったシーア派軍は次のとおりである。2名以上の民兵軍の司令官と1名の連邦警察高官がアルジャジーラに語った。
①カタイブ・ヒズボラ
②ヌジャバー(アサイブ・ハクから分裂した軍)
③ジュンド・イマーム
④バッタール旅団
⑤アクバール旅団
スンニ派の志願兵旅団も参加した。
<イラク空軍の出撃>
米軍の空爆が始まったのは25日の夜である。
その日、米空軍に先立って、イラク空軍のスホーイ25型が、バグダードのラシード基地を飛び立った。ラシード基地には中古のスホーイ25型が5機、配備されている。国防相は自信を持って見送った。しかしその中の一機が誤爆した。
(写真)Reuters
イラク空軍の空爆は不正確で、目標に命中しないことが多い。25日には味方の陣地を誤爆し、イラク兵が逃げ回ることになった。15人が負傷し、4人は重傷だった。
誤爆してしまったからといって、イラク空軍は役立たずではない。ISISが陣地としている建物を破壊し、米空軍の出撃と交代する形で出撃するので、ISISは休むことができない。
精密な爆撃をする米軍も、誤爆をしている。シーア派民兵9人が死亡した。シーア派は、これは誤爆ではなく故意だと考えている。
<個々のシーア軍は他からの命令を受けず>
ティクリート戦の最終段階は、バドル軍をはじめシーア軍主力無しで勝利した。にもかかわらず、米国防省のスタッフは、シーア派の「ごろつき」が果たした役割の大きさを認めている。「彼らがいなければ、ティクリートの勝利はなかった。
シーア軍について、国防総省の複数のタッフが鋭い分析をしている。デイリー・ビーストから抜粋する。
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シーア派民兵が、地上戦の主力として勝利に貢献した事実は重く、今後の作戦について、彼らに主導権がある。しかし彼らは一枚岩でなく、いくつものグループに分れており、それぞれの方針を持っている。シーア派民兵の各グループは独立した存在であり、イラク政府・米国・イランのいづれからも距離を置いている。3国の政府との対立が予想され、グループ同士が互いに争う可能性も高い。
彼らはイラク政府にとって信頼できる相手でない。目前に迫っているモスル戦に彼らは参加しない。
ティクリートはシーア派にとって戦闘領域の北限だった。
Fault Lines 貼り付け元 <http://www.thedailybeast.com/articles/2015/04/04/shiite-militias-are-the-real-winners-of-the-battle-of-tikrit.html>
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ティクリート自体はスンニ派の土地であり、自分達の土地ではないので、戦う理由はない。少し南方にはシーア派地域があり、それは守らなければならない。
ティクリート作戦開始にあたって、バドル軍の司令官が、ことさら「スパイカー基地の新兵虐殺の復讐」を誓ったのも、ティクリート戦の理由が、志願兵にとって分りにくかったからかもしれない。
バグダード以南の若者は、北方のスンニ派の都市モスルを攻撃する理由が分らない。
今回のティクリート戦には、シスターニ師の呼びかけに応じて参加した者が少なくない。彼らはかならずしも戦争の意味を理解していなかった。志願兵は「スンニ派を絶滅して領土を拡大」しようと考えていたわけではない。
各グループ相互の違いに加えて、各グループ内に中核部分と一般志願兵の相違がある。一般志願兵はティクリート戦で戦死者が多かったことに、心を痛めており、戦争理由に納得できない場合、今後は参加しないかもしれない。
(写真)Daily Beast
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