穏やかなエッセイ集 「遠い朝の本たち」
60歳で女流文学賞をとった晩生の作家、須賀敦子さん
中学・高校と多感な時期に最もお世話になった私の恩師が同級生ということもありこの本がいつしか私の傍にある。何故この本が家にあったのか、まったく覚えていない。その偶然さも不思議な縁というものか。同窓生ということもあり、ある日ふっと手にとってから手放せなくなった。
その中にアン・リンドバーグ(初の大西洋横断の単独無着陸飛行を成功させた飛行家の婦人)=エッセイストの言葉が抜粋されている。彼女は夫に付いていくつかの冒険飛行に参加しあるとき、日本の千島列島の葦の中に不時着する。運よく救出されてアメリカへ戻るまで日本に滞在し1931年、横浜埠頭から戻ることになる。その時埠頭を埋めた見送りの人々が口にする「さようなら」という言葉の意味を後に書いている、と。
「『さようなら』とこの国の人々が別れにさいして口にのぼらせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々を守っている。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、フランス語のアデュイも、神のみもとでの再会を期している。それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ」
ドイツ語のアウフビダゼーエンも中国語の「再見」も「また会いましょう」という意味。別れを次につなげ、別れている間も神があなたを守りますようにという祈りに近い、希望を含んだ言葉。なのに・・・
何度か人との別れを経験してきたこの歳になると「別れ」は決して希望に繋がらないこともわかっている。私が「そうならねばならぬのなら」という気持ちにならざるを得ない時にだけ「さようなら」を使うようになったのもこの文を読んでからである。
アン・モロウ・リンドバーグという作家のことがもう少し書かれている。「ものごとの本質をきっちりと捉えて、それ以上にもそれ以下にも書かないという信念」そして「徒党を組まない思考への意思がどのページにもひたひたとみなぎっている」と。
須賀さんの記憶の中に残っているすれ違った人たちと本のことを、きちんとそして穏やかに綴る彼女の言葉に共感し癒されるのは何故だろう。きっと彼女も本質を捉えて、それ以上にもそれ以下にも書かない。自然な文体でそれでいながら凛とした風が吹くような彼女の文章を心地よく感じる。
60歳で女流文学賞をとった晩生の作家、須賀敦子さん
中学・高校と多感な時期に最もお世話になった私の恩師が同級生ということもありこの本がいつしか私の傍にある。何故この本が家にあったのか、まったく覚えていない。その偶然さも不思議な縁というものか。同窓生ということもあり、ある日ふっと手にとってから手放せなくなった。
その中にアン・リンドバーグ(初の大西洋横断の単独無着陸飛行を成功させた飛行家の婦人)=エッセイストの言葉が抜粋されている。彼女は夫に付いていくつかの冒険飛行に参加しあるとき、日本の千島列島の葦の中に不時着する。運よく救出されてアメリカへ戻るまで日本に滞在し1931年、横浜埠頭から戻ることになる。その時埠頭を埋めた見送りの人々が口にする「さようなら」という言葉の意味を後に書いている、と。
「『さようなら』とこの国の人々が別れにさいして口にのぼらせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々を守っている。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、フランス語のアデュイも、神のみもとでの再会を期している。それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ」
ドイツ語のアウフビダゼーエンも中国語の「再見」も「また会いましょう」という意味。別れを次につなげ、別れている間も神があなたを守りますようにという祈りに近い、希望を含んだ言葉。なのに・・・
何度か人との別れを経験してきたこの歳になると「別れ」は決して希望に繋がらないこともわかっている。私が「そうならねばならぬのなら」という気持ちにならざるを得ない時にだけ「さようなら」を使うようになったのもこの文を読んでからである。
アン・モロウ・リンドバーグという作家のことがもう少し書かれている。「ものごとの本質をきっちりと捉えて、それ以上にもそれ以下にも書かないという信念」そして「徒党を組まない思考への意思がどのページにもひたひたとみなぎっている」と。
須賀さんの記憶の中に残っているすれ違った人たちと本のことを、きちんとそして穏やかに綴る彼女の言葉に共感し癒されるのは何故だろう。きっと彼女も本質を捉えて、それ以上にもそれ以下にも書かない。自然な文体でそれでいながら凛とした風が吹くような彼女の文章を心地よく感じる。
私は「お陰様で」という言葉が好きです。
私も是非拝読したいと思います。素敵な本のご紹介を頂いて嬉しいです。
最後の時を迎える時、「ありがとう」と「さようなら」を真っ直ぐに言える自分でありたいと、樹間暮さんの文章を読んで思いました。
「お陰さまで」という言葉もその意味を使いこなす文化は日本独自のものかもしれませんね。
「いただきます」や「ごちそうさま」という何気なく口にしている言葉も八百万の神を受け入れている(一神教ではない)日本人だからこそ自然に口についてくる礼儀なのでしょう。この頃日本人でよかった、と思うことしきりです。
おっしゃるとおり、最期を迎えるとき「ありがとう」「さようなら」をいえる「人の道」を身の程に歩いていたいです。
きました、、、
あなたに出会い、言葉の持つ奥深さに触れる
ことが出来、感謝します。ありがとうござます…
私もこの本で教えられました。若いとき読んでいたら素通りしてしまった箇所かも知れません。歳を重ねることもいと楽し!ですね(^^)V
続けてのコメント、ありがとうございます。
須賀さん、多くの本(エッセイ)を書かれています。お好みの中身を手に取ってください。
私はアン・リンドバーグの著書が読みたくなっています。
もっと知ってみたくなりました。二人の素敵な女性。
良いお話ありがとう。
言葉へのこだわりって、他の国の言葉を知ればしるほど、かえって強くなるものですね。
実はどうも巷では賛否両論あるようですが、一度読んで見てください。人それぞれの好みがありますから。