NHK-Eテレ9月29日 午前5時~ 午前6時放送の心の時代 『国境なき針と糸』を感銘深く拝見しました。 出演は、レシャード・カレッド医師、聞き手は道傳愛子さんです。
アフガニスタン人から日本人となったレシャード・カレッドさん
レシャードの出身地カンダハル
アフガニスタン出身の医師レシャード・カレッドさんは、 静岡県島田市で無医村診療や老人介護に尽力する一方、戦 争に次ぐ戦争で荒廃し、死と隣り合わせの生活を送る故国 の人々を救援するために立ちあがり、現地に無料診察所や 学校を建い設する活動を続けています。
レシャードさんの「医療 人」としての信念は、「医療は科学ではなく、人間の心がつな がること」と言います。仲間を自爆テロで失いながらも人間を信じ、格闘を続けるレシャードさんの人生を聴きます。
番組冒頭、アガニスタンのカンダハル出身の医師が島田市で往診している姿を拝見し、あれ、どうしてアフガニスタンの医師が日本でと疑問がおこりました。
レシャードさんは、アフガニスタンで医学部を卒業後、先進的な医療を学ぼうと日本にやって来て以来44年が経ちます。
レシャードさんの医師として最も大事にされているのは、人と人の信頼だと言います。
また、医師を必要としているところに医師がでむいて、なんとか奉仕できることが大切だと言います。
レシャードさんは日本に来て7年後、京都大学医学部を卒業し、日本で医師となり、最初に踏み出したのは静岡県島田市の市民病院です。呼吸器の専門医として活躍し、日本国籍も取得します。
その後、海外派遣の話が持ち上がり、1989年イエメンに派遣されます。イエメンでは結核が蔓延していましたが、予防対策や治療に奔走した結果、結核の治癒率が中東でトップとなる成果もあげます。
イエメンのあと、島根県松江市の病院で呼吸器科を立ち上げる仕事が待っていました。
松江で働き始めたレシャードさんのもとに、ある日かつての患者や家族がバスをつらねてやってきました。それは、私たちの島田にぜひ戻ってきてほしいという陳情でした。
随分悩んだ結果、島田市に戻り自分の医院を開くとともに、当時は数も少なかった、介護老人保健施設などの建設にも乗り出しました。
レシャードさんが目指したのは、施設を町から離れた山際ではなく、市街地におくことでした。老いや病を抱えた人が普段通りの生活の中で暮らせるよう力になりたいという信念を掲げます。レシャードさんは自らを医者ではなく、医療人と呼んでいます。
患者の病を直すのに医師は1/3の役割しかなく、それ以外は他の医療スタッフだとも言います。
また、医療人にはサラリーマン的ではなく、奉仕という考えが必要だとも言います。
レシャードが日本に根を下ろした理由のひとつは、1979年のソ連のアフガニスタン進攻です。撤退までの10年間に国民の1/10にあたる150万人が死亡し、600万人の難民を生み出しました。
ソ連のアフガニスタン進攻
その後もタリバンなどによる内戦が続き、2001年にはアメリカで起きた同時多発テロをきっけに、今度はアメリカ軍がアフガニスタンを攻撃し、多くの住民が犠牲になりました。かつて女性たちが街を闊歩し、自由で多様な文化を誇っていたアフガニスタンの豊かさは、相次ぐ戦争で奪われました。
アメリカ9,11テロ事件
その後、アメリカ軍の攻撃
かつて自由だった女性たち
今のアフガニスタンの女性たち
レシャードが帰るべき場所と決めていた病院は、破壊され、国民の平均寿命は50歳未満と言う世界屈指の劣悪な環境におかれています。
破壊され尽くされた医療施設
レシャードさんは、ソ連の進攻後、難民キャンプを訪れ、医薬品などの支援を行ってきました。2002年、レシャードのアフガニスタン支援を知った、患者や市民がカレーズの会というボランティアの組織を静岡市に立ち上げ、全国に寄付を訴え、現地に医療施設などをつくる活動をすすめてきました。
すでにレシャードさんの故郷カンダハルに無料で医療が受けられる診療所を開設、医師を含めた現地スタッフは25人になりました。
診療所では、病人はすべて平等であるという理念で宗教が違う人もタリバンもすべて受け入れています。
そんななか、レシャードさんの大きな支えだった、妻秀子さんを2006年失います。
2008年には、現地の若い医師を自爆テロの犠牲で失います。
そんな苦しいなか、自分を問い直し、イスラムの教えにある、自分でできることは、人に分け与えるという考えで医療に接していると言います。
医療は本来病人が寝てて動けないのだから、元気な医師や医療スタッフが自分から動いていくのが当たり前なのに、日本では、元気な医者のもとに病人がわんさと集まってくる。
医師にとって、場所ではない、患者がいればそこに出向くのが当たり前だと言います。
また、死は避けられないが、逆にどう生きるかの質が問われていると言います。
ある88歳のおばあちゃんが臨終の際、本人が希望している自宅で家族に囲まれてなくなりたいという願いをかなえ、自宅につれ帰りました。
孫やひ孫たちがおばあちゃ手をにぎり、会話し続けることで、3日間延命し、最後は笑顔で亡くなりました。
今の子供たちは家の中で人が亡くなるのを見ていないことが、現代のいじめや暴力にも影響しているのではとレシャードさんは言います。死の苦しみや悲しみを学べていないといいます。
いまアフガニスタンの人と人との信頼関係が崩れていて、これを取り戻すには長い年月が必要だと言います。
レシャードさんは日本の島田でもアフガニスタンでも糸と針で人との関係を結び会わせたいと願って活動しています。
私も子供が手を離れたのを待って無医村に飛び込んでいった医師、国境なき医師団に加わった医師も知っています。圧倒的に多くの医師は病院勤めであり、開業医ですが、なかには、レシャードさんのように、自ら患者さんのもとに飛び込んでいく医師がいることに感銘を受けます。