京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

高村光太郎の父、高村光雲

2013-10-08 06:29:02 | 美術・博物館

今日は、高村光太郎の父、高村光雲について書きます。
ところで、最近の私のブログは、外出記事がほとんどないことにお気づきの方もおられると思います。実はよんどころなく、療養中でありまして、医師から外出が制限されております。本来なら、気候のよい10月のこの時期、京都のあちこちに出歩きたいのですが、遺憾とも仕方ありません。
回復するまで、しばらく御容赦ください。
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光雲は、江戸下谷(現・台東区)に町人兼吉の子として生まれます。文久3年(1863年)
→1852年嘉永5年生まれに訂正。
幼い頃から仏師の高村東雲の元に徒弟となり、後に東雲の姉の養子となり、高村姓となります。
明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で、仏師としての仕事はなく、輸出用の象牙彫刻が流行したために木彫も衰え、光雲自身の生活も苦しかったのです。そのような中で、光雲は木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫に写実主義を取 り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たしました。
明治22年(1889年)から東京美術学校に勤務、翌年に彫刻科教授、帝室技芸員に 任ぜられます。明治26年(1893年)には『老猿』をシカゴ万博に出品。1900年には 『山霊訶護』をパリ万博に出品。大正15年(1926年)に東京美術学校を退職し、 名誉教授となります。



ここまでのことは、光雲自身が書いた、 『幕末維新懐古談』で詳しくふれられています。
私は『青空文庫』で読みました。非常に面白い内容で、一気に読んでしまいました。





光雲の弟子には山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海、関野聖雲など近代日本彫刻を代表 する彫刻家がいました。
高村光雲の長男が、彫刻家であり、詩人でも有名な高村光太郎です。このことは、昨日のブログで書きました。

光雲と光太郎




光雲の代表作

老猿(東京国立博物館蔵) - 明治26年(1893年)
老いた猿を緻密な木彫りで表現しています。丁寧な仕上げは日本伝統の彫刻として、高く評価されたものです。













西郷隆盛像(上野恩賜公園) 明治30年(1897年)に完成し、翌年除幕式が行われた。傍らの犬は後藤貞行の作。

(皇居前広場)




楠公像

住友家が別子銅山(愛媛県)の開坑200年を記念して東京美術学校に製作を依頼し、
光雲が製作主任となり、主に楠公(楠木正成)の頭部を担当。体部は山田鬼斎と石川光明、馬は後藤貞行、鋳造は岡崎雪聲が担当した。銅像の台座の銘板には「明治30年」
年)に完成している。