京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

京都八坂神社、四条通り今昔

2016-10-02 17:57:44 | 京都めぐり

先日京都の古い写真を見て、京都の町の変遷に興味が沸きました。
すっかり変わってしまったものもあれば、ほとんど変わっていないものあります。
八坂神社西楼門と四条通りを昔の写真と見比べて歩いてみたくなりました。

京都八坂社は慶応4年(1868年)八坂神社と改称するまでは祇園社と称していました。
神社の創建は656年とも876年とも言われ、いずれにしてもずいぶん歴史があります。
四条通りの東突き当たりに面し、ひときわ目立つのが八坂神社西楼門(重要文化財)です。
その美しい姿から八坂神社と言えば西楼門を思い浮かべる方も多く、市民、観光客に親しまれています。
この楼門は応仁の乱で焼失し、497年に桧皮葺で再建され、室町時代に瓦葺きに替えています。
大正2年(1913)四条通りの拡張で移動し現在の姿になっています。
京都にお越しいただいたとき、八坂神社に参拝された方も多いと思います。

撮影 10月1日




八坂神社石段下から四条通りを西に見た写真
明治の初めだと思われます。江戸末期とそんなに違わないかもしれません。
家並みはほとんどが二階建ての京町屋、左画面に物見櫓のように見えるのは弥栄校の望楼です。
弥栄校は1869年(明治2年)下京第33番組小学校として設立され、校舎は当時の町会所を転用、改築されたものです。
1872年(明治5年) 八坂学校と改称、1877年(明治10年)弥栄校となります。
人力車が写っています。京都で人力車が初めて開業したのは明治4年(1871)です。
写真が色付きですが、明治末期外国人向けに白黒写真に着色したものです。





四条通り、東を向いて八坂神社西楼門を見た写真
一枚目の写真にはなかった電信柱が写っています。
電信柱は明治4年(1888)に開通、アーク灯は明治16年、京都で電灯普及は明治25年以降です。





明治10年頃の写真です。
まだ道路は狭く三間幅で、東山通りもありません。





大正4年八坂神社石段下の四条通りは十二間幅に拡張されます。
道路中央には電柱が立っていますが、削る取られた北側を示しています。





昭和初期(6年)の西楼門前です。
道路の中央立っている人は、手動で東大路の東行きと西行きの軌道を変えていたものです。





今回の散策で八坂神社石段下から四条通りを撮影
人力車から市電、今は自動車中心の通りになっています。





四条通りから八坂神社西楼門を撮影
楼門は変わらぬままですが、町並みはすっかり変わっています。










四条花見小路に寄ってみました。





祇園一力










相変わらず観光客が多いです。





最近は和服姿をよく見かけるようになりました。





今も現役の昭和のポスト





菊水





鴨川と川床(撮影10月1日)
川床は9月30日までです。
順次川床は撤去されてしまいます。













メアリー・カサット展 

2016-10-02 05:25:37 | 美術・博物館


京都国立近代美術館で待望の「メアリー・カサット展」が開催されています。
日本では35年ぶりの回顧展でカサットの油彩、パステル画、版画の代表作、交流のあった印象派の作品110点が展示されています。
日曜美術館でも紹介されていましたので、早速行ってきました。




メアリー・カサット(1844-1926)はアメリカ東部の裕福な銀行家の娘に産まれます。
16歳でペンシルベニア美術アカデミーに入学し、その後本格的に絵の勉強をするために、
反対する父親を説得して19世紀のパリに画家をめざしてやってきます。

カサット1867年頃(23歳)の写真



パリの美術学校に入学しようとしましたが門前払いです。理由は女性だからです。
当時のフランスは女性に対する差別や偏見が色濃く残っていたのです。
それでカサットはルーウ゛ル美術館に通い、名画模写で腕を磨き苦労の末に画家になります。
当時一人前の画家として認められるには、サロンと呼ばれる展覧会に入選しなければなりません。
パリに来て三年、初入選作品です。

「バルコニーにて」1873



しかしサロンに違和感を覚えていたとき、一人の画家と出会います。
印象派を代表するエドガー・ドガ(1834-1917)です。



ドガの絵は宗教画にはない現実の人間が描かれ、カサットはこれこそ自分のめざす道だと考えます。
女性が一人で外出することも自由に絵の題材を選ぶこともできなかった時代です。
カサットは身近な家族や友人とその子供たちを徹底的に観察し、こまやかな視点で描き続けました。

人間のありのままの姿を実際にその場で見ているように表現したのです。
母と子のふれあいを身近に観察するうちにカサットのめざす絵が見つかったのです。
そして挑んだ作品

「浜辺で遊ぶ子どもたち」1884




「桟敷にて」1878

パリ印象派展出品、黒いドレスに見をつつみ男性の視線にも動ぜず、舞台に熱中する女性



「眠たい子どもと沐浴させる母親」1880

むずかる子どもの身体を拭いてあげようと、母親がスポンジを持った手を動かそうとしています。









「母の愛撫」




「果物をとろうとする子ども」1893




カサットはパリに来た頃、両親と姉と暮らしていました。
母や姉をモデルにした作品も描いています。

「お茶を飲むリデイアと母」1882





「タペストリー・フレームに向かうリデイア」1881

7歳年上の姉は病をかかえ、この作品の翌年に亡くなります。




「ロバート・S・カサット夫人 画家の母」1889




「編物をするカサット夫人 横顔」1882





40代後半カサットは複雑な心情を表現する新たな手法に挑戦します。
多くの印象派の画家が影響を受けた日本の浮世絵から学んだ銅版画です。
1890年モリゾへの手紙には「日本の版画を一緒に見に行きませんか。絶対にそれらを見逃してはいけません。
それは私の夢にもあらわれ、銅版の色彩以外には考えられないくらいです。」と書いているくらいです。
喜多川歌麿や葛飾北斎の浮世絵に構図や表現方法など大きな影響を受けました。

銅版画「母の愛撫」1890-91



「手紙」1890-91 女性はどこか日本人に似ています。








「母のキス」1890-91



「沐浴する女性」1890-91



カサットは47歳で初の個展を開催します。
フランスでようやく評価されるようになりましたが、故郷ではほぼ無名です。
アメリカでも認められたい、まだ知られていない印象派の絵を広めたいと思うようになり奔走します。
画廊やオークション会場をまわり印象派の絵画を薦めます。

ニューヨークのメトロポリタン美術館にカサットゆかりの展示室があります。
その大半を占めたのがカサットや印象派の作品です。

ドガ 「バーで練習する踊り子たち」



モネ 「ポプラ並木」



マネ 「舟遊び」



アメリカを代表する画家として、カサットの母と子の絵が飾られています。

「縫い物をする若い母親」



晩年のカサットは白内障になり視力を失います。
それでも若い画家の支援を続け、さらにはアメリカの女性参政権に関わる活動を支援します。
1926年パリ郊外で亡くなります。82歳でした。