前のエントリー「老いらくの恋」で、短歌の師匠と女弟子、ふた組の恋愛事件を取り上げてみた。書いているうちに、新たな興味が浮かび上がった。それは、それぞれの恋の当事者が歌人、すなわち格別に感受性の鋭敏な人達であったということと別次元の、短歌という詩の形式に具わる恋愛励起のはたらきの仕組みについてである。
この国に短歌が生まれ、心情を伝達する手段に用いる習慣が根付いたのは、論理より情緒に馴染み易い民族性と無関係ではないだろう。婉曲と韜晦を好む穏和な民族に独特の詩的表現は、また恋情を伝えるにも効果的な手段であったことは、夙に知られている。
語句の数を限られる短歌では、詠み手の意思や心情を、明確に読み手に伝えることはできない。語の制限ゆえに修飾語を欠くのは避けられない。にもかかわらず、情緒を伝える効果は、はるかに散文に勝る。委曲を尽くして綿々と文章で訴えるより説得力がある。言葉で言い尽くせない部分に余情が生まれ、その余情が情緒のエッセンスとなるからである。
短歌は余情の詩で、その余情をどう推察理解するかは、読み手の教養と想像力に委ねられる。語彙を駆使できず、状況や心情を説き尽くせない部分は、詠み手が知識と想像力で補い理解する。短歌は読み手の教養と想像力が試される文芸と言える。その特質が、小説などと違って短歌を、講話や解説、指導や注釈の必要なものにしている。
詠み手の余情と読み手の想像によリ成り立つ文芸の短歌を、恋の通信手段に用いたとき、その情報伝達の機能はどのようなものになるだろう。
余情に籠められた情念を、読み手は教養と想像力をフルに使って汲み取ろうとするだろう。先ず第一に、想像(推測)が実情を上回ることが予想される。なぜなら、想像というものはもともと膨張する性質を帯びているからだ。想像が想像を呼び、コトは大きくなる。さらりとはいかなくなる。
短歌でのコミュニケーションは、発信者が言葉を尽くせないことから生じる実体のない余情と、その余情に対する受信者の想像(推測)の応酬だから、通信の都度、自ずから想像の影響を受ける。ことの始まりから、想像(推測)が主導権を握っていれば、自己愛から生ずる誤解も多発しよう。その誤解が、恋の火を点けたり、炎を煽ることもあるだろう。この、恋情を誘発させ増幅するはたらきこそ、短歌に具わる恋の励起作用というものではないだろうか。
漠然と花鳥風月を詠んでいる分には何の問題もない。それが、具体的に異性の相手を意識して発信するようになると、件の励起作用が起動して、抜き差しならない感情に陥いってしまうのだろう。短歌は、それを嗜む人たちにとって、極めて危険な恋のツールになり得る文芸であると、遅まきながら理解した次第。短歌を詠めなくてよかった!
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