昔私が通っていた蕎麦店は、店員さんに注文すると、「ご新規さん 〇〇一丁!」と客席の奥の厨房に向かって威勢よく声をかけていた。店主は東京の下町で修行した人らしく、「ご新規さん」の耳触りが好かったことを思い出す。今日では「ご新規さん」という言葉をほとんど耳にしなくなった。
世の中には、飲食店や料理店に出入りすると、常連=〈お馴染みさん〉になりたがる人が多い。特に有名店とか敷居が高いと言われる店に対してそうなる傾向が強い。虚栄心という俗情に誰もが囚われるからである。
寿司店で知り合ったある青年は、その店の常連になりたくて仕方なかったらしく、当人の名入りの湯呑みを店からプレゼントされたときには感激していた。
それ程に人は、自ら評価する存在と昵懇になることを渇望するものである。自己承認欲求は誰にもあるから、それは容認されて然るべきものである。
歌手やタレント、アスリートのサインを欲しがり、インスタやYouTubeの閲覧を欠かさないのも、双方向の触れ合いを願ってのことだろう。認めた相手に認められたい熱い思いが感じられる。
私は天邪鬼で臍曲がりの上に、齢のせいで熱意が不足しているから、いつも〈ご新規さん〉で居るほうが心地好い。その方が新鮮な気持ちでいられる。
〈お馴染みさん〉と〈ご新規さん〉とで接し方が変わる店とか、一見さんお断りの店とはとんと縁がない。客を特別待遇して優越感を味あわせるのも、店のホスピタリティーの大切な要素、つまり重要な営業政策であろうから、部外者がとやかくいう性質のものでないが・・・。
店との関係だけでなく、人との関係も、〈竹馬の友〉とか〈無二の親友〉などという、常連と類似の濃密な関係性の強調はごめん被りたい。多年の誼みヘの過剰な期待は、双方の為にならない。
舊い友も新しい友も、友誼の期間は友情の濃淡には何ら関係ない。
人には時々の事情、境遇がある。自分の変化は認めても、他人の変化に想像力が及ばない人物と誼みを通じるのは無理があるだろう。そもそも、自分自信の変化に気づかない人の方が多い世の中である。
親しい人にも親しくない人にも、〈ご新規さん〉の新鮮な感覚で触れ合いたいものだ。そうでないと、虚心坦懐に人と接する契機を見逃す。
出来ることなら、いつも心身の自在性を保っていたい。
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