政治に関する巷のインタビューで、「今の政権党の政治には幻滅しているが、かといって野党はだらしなく、野党連合政権に国政を任せる気にはなれない」という回答をよく耳にする。投票しないで棄権する人たちだろうか?彼らは自分が批判力はあるが決断力がない怯懦の人であることに気づいていない。
彼は政治にbestがあるとでも思っているのだろうか?
政治機構も、所詮寄せ集めの集団で成り立っているのに・・・傑れた個人は居るが、優れた集団というものは存在しないことを知らない。傑れた個人をどれだけ集めても、優れた集団にはならないという真理を知るべきだ。誰が政権を担っても、最善の政治など実現できるはずもない。
また彼は、この世に絶対的な正義があって、それを実現してくれる組織が存在すると妄信しているのだろうか?前記のインタビューの回答は、完全な統治権力を夢想している人の答えだ。理想の社会への願望は、不可能を政治に期待する、誤った信仰である。
件の回答者は、どっち付かずが最悪の決断であることを知らない。
人は大勢が二分したら、果敢に判断し、より優れていると思う方に従くしかない。右か左か、赤か白か。さもないと、選択する判断力と迷わない決断力をもたない人であること、即ち恃むに足りない人であることを自ら表明することになる。
物事は流動する。二つの勢力が覇を競うとき、どちらに従くか遅疑逡巡しているのは何ら良い結果をもたらさない。保守かリベラルか、果断にどちらかに与しなければならない。中立は自らを無用と宣言することである。
無力を有力に、未熟を成熟に育てる選挙民としての自覚がないままに、初めから依拠できる有力な政治権力があるかのように考えるのは、明らかに選挙民として無責任であるし危険でもある。そのような絶対的政治権力を願望する心が、ファシズムを招くのである。
政治にbestはないという認識が、比較してbetterを選ぶ判断力を育てる。それは民主的で現実的な判断である。
政治に絶対的な○印と✖️印があるかのような認識は、絶対権力が政治を行なっていた封建時代の庶民意識を未だに引き摺っているとしか思えない。他力依存で、自分では何一つ変革に与しようとしない怯懦な考えは捨てなければならない。戦前のファシズムも、2.26事件後に国を覆った怯えから始まっている。
何事も、初めから完成しているものはない。習熟や錬成には十分な時間が必要である。それを選挙民が忍耐強く待つのでなければ、政治の改革など実現できるはずもない。
実績の無い野党に政権を委ねるのは、リスクを伴うのが当たり前だ。官僚機構の協力支援もなく、また彼らとの連携の経験もなくては、関係構築までに時間がかかるのは仕方がない。多年にわたり利益の共有で狎れ合った既存政権の様に、円滑にはいかないだろう。
政治と行政が円滑かつ効率的に機能するようになるには、然るべき時間が必要だ。新政権の眼前には、これまでの政権が改革や改善を等閑にして時代に適応しなくなり劣化した政治制度や悪しき政治慣習が山積している。それらを整理し制度を正常化する時間が必要である。選挙民がそれを支持し待つことに忍耐するのでなければ、新しい政治機構や組織を整えることなどできはしない。
野党が政権の座に就けば、直ちに前政権とは際立って異なる優れた政治を行ってくれると期待するのは、現実に対する理解を欠く幼稚な考えである。
保守政権の9年に及ぶ迷走を忘れてはいけない。私を優先し公をなおざりにする政権に統治を委ねていたこの期間、官公庁は官邸(内閣官房)に忖度し、メディアは政権に阿ね批判を抑え、国力は衰えるばかり。改革など与党の誰が旗を振るだろう。
選挙民が変化を望まず前例踏襲の一党独裁を許して来たから、行き着くところまで来た。日本の政治は先見性と機動性とを失い、ニツチもサッチもいかなくなっている。因循姑息な保守政権は、見かけ上のリーダー即ち総理の看板を懸け変えては、実現できない公約で国民を幻惑し延命を図ってきた。
政党の党首と雖も、権力をもたない一個人としては、欠陥だらけの無力な存在だ。政権党の議員も同じである。
国民に耳障りの良い言葉を吹きこむことで当選回数を増やし、自己の猟官活動に腐心してきた。アピールばかりで、政策の策定と実績とを検証し、具体的に選挙民に提示した験しがない。
リスクに挑み変革を促す果敢な政治
意識が、今、私たち国民に最も求められている。
変化につきまとう不安定や失敗に怯え、現状追認に終始し安定ばかり求める惰弱な精神が、この国に一党単独政権の長期延命を可能にしてきた元凶である。
野党が政権を奪取した結果、社会と経済が更に悪くなる確率が50%、良くなる確率が50%なら、政権交替をやってみる意義はある。やってみなければわからないことは確率5割で成功する。駄目だったら、原因を確かめて新たな政権を選べば良い。
民主主義は本来不効率なものである。ブレや揺れは民主主義につきまとう。しかし、その不効率なブレや揺れこそが、究極的に良い選択に収斂する。ブレや揺れは誤った方向に進むのを修正する。正道はブレの範囲にあり、中心に収まるものであろう。
「ブレない」を高言する人も公党も、民主主義と馴染まない偏狭さをもっている。要するに視野が狭ければブレないし揺れないのである。
耐震建築を知れば、ブレや揺れの意義がよくわかる。
ファシズムやマルキシズムに寛容性が欠落しブレが無いのは、自らの無謬を盲信しているからである。いつの世でも、無垢で不安な若者は、其処に誘引され易い。大人たちは注意の目を光らせていなければならない。
政権に絶対的な善政など期待しない良識と、より良い政治を目指す政権党を護り育てる気概は、選挙民のものである。個人的な親密度とか利害で政治家を選ぶ幼稚性を脱することが、今選挙民の全てに求められている。
国民性と見做されている惰弱な事大主義からは、モリ・カケ・桜花見のような、国民蔑視の独裁政権しか生まれない。