道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

生活雑器

2020年09月30日 | 随想

前ブログ「土瓶蒸しの器」で、荒物好きをカミングアウトしたが、2年前に衝動買いしたのがコレ。


滋賀県長浜市で手に入れた。何という名の器具か知らないが、もっぱらクリを炒る為に使っている。茹で栗も美味しいが、焼き栗の味覚も捨てがたい。鉄製のモノはどこでも見るが、ステンレス製はその店だけのオリジナル、実用性と耐久性で申し分のないシロモノだった。


購入し得意顔で帰ったら、妻に「こんな年に1・2回しか使わないものを買って!」と邪魔物に扱われた。何と貶されようと、焼き栗にはコレが必要。サンマを焼くのに七輪が欠かせないのと同じだ。

物の加工には、最適な用具というものがある。出来るだけそれを使うのが理に叶う。それを無駄な物と詰られてはかなわない。

これらの荒物類はAmazonや楽天など通販に取り揃えられているが、やはり店で手に取り、使い勝手を試して見なければ選択できない。その荒物店が、各地で急速に減っているから困る。
需要減と後継者難は、あらゆる自営業の存立基盤を揺るがしている。

よく考えてみたら、需要減よりも、大規模店に顧客を奪われたのが、家業を存続できない理由だ。売上高(収入)が減り、子弟が家業を継げないのでサラリーマンの道を選んだのだ。後継者が生まれなかったのではない。全国各地の自営業が減ったのは、政治が資本の論理に従い、大規模小売業の出店に規制をかけなかったからである。需要減・後継者難は、結果であって原因ではない。

閑話休題。
旅先で真っ先に見つけた荒物店に入る亭主に、妻は怒りを抑えきれない。私とて名産・名菓や銘酒を買い求めないではないが、その土地の人々の生活に密着した珍しい生活用具などの方により魅力を感じる。それなりに旅を楽しんでいるのだが、関心の無い者から見ると、腹立たしいことこの上無いらしい。若い頃はこうでなかったと言い張るが、私の憶えでは、少年時代から荒物と文具が好きだった。

旅先で妻と喧嘩になるのは、全て私に非がある。見知らぬ土地で、この多動性の老爺を連れ歩くのは、言語に絶する苦労に違いない。目を離すと忽然と姿を消しているらしい。好奇心が自制心を圧倒するからだろう。

ある時友人と伊勢湾の島に渡った。彼が船着場の食堂兼土産物店で、常滑焼の未使用の蛸壷を購入した時には、さすがの私も心底から心配した。類は友を呼ぶとは言え、蛸壷なんか持ち帰って奥さんが怒らないか・・・?
この時、私はフジツボだらけの使用済み蛸壷の方が欲しかったのだが、辛くも思いとどまった。妻を納得させられないと見たからである。

生活民具に興味を持つのは、伝統民家の建築に惹かれるのと変わらない。人間の暮らしは、家屋と衣・食と生活用具で成り立っている。生活用具、生活雑器を知ることは、暮らしを推測する助けになる。使っていた道具を見れば、その時代の生活が浮かび上がって来る。庶民の生活の実態と関係がない教科書的歴史には、興味の湧きようがない。
 




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 動的筋トレ | トップ | 狭い門 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿