道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

「おきゃん」すぎる花

2009年06月09日 | 人文考察
キョウチクトウの花が咲き始めた。
中国原産のこの花木は、自動車の排気ガスなど汚れた空気に強く乾燥にも耐えるところから、道路の路側帯・分離帯や公園などに植えられている。夏になると株立ちの枝にびっしりと紅色の花をつける。

私は生来の花好きなのに、なぜかこの花には魅力を感じない。それがどうしてなのか、深く考えたことはなかった。
過日小説を読んでいて、その理由がわかった。
以下は、文中の主人公とその母親との会話・・・


 :「夾竹桃がたくさんあるじゃないの」私はわざと、つっけんどんな口調で言った。

 :「あれは、きらいなの。夏の花は、たいていすきだけど、あれは、おきゃん過ぎて・・・ 

             (太宰治[斜陽])より

そうか、キョウチクトウの花は「おきゃ」過ぎるのか・・・

作家の目には、こぼれんばかりに咲き誇る紅色の花が「おきゃん」に映っていたのだろう。



「おきゃん」は、明朗・活発でつつしみがなく軽はずみな娘、端的に言うとお転婆に近いが、「きゃん」は「侠」の読みだから、心意気ある娘の謂でもあろう。

若い女性は淑やかで慎ましくあらねばならない、とされていた時代に意味をもっていた言葉だが、娘たちのほとんどが、当時の「おきゃん」風になってしまった昨今では、この言葉の響きに感応する人は少なくなっていると思う。

私が育った下町には、「おきゃん」な女の子がかなりの割合で居た。下町は必然的に「おきゃん」を養成する幼い頃から、家族以外の大人たちと常に接し、大人社会と密に触れて育てば、ませてもの怖じせず闊達になり、心意気が表に露われるようになるはずだ。

積極性が身上の彼女らには、独特の魅力があって、男児から一目もニ目も置かれていた。子供心に「おきゃん」を厭う気持ちはまったく無かったが、私は「大人しい」少女に惹かれる質で、「おきゃんな」女友達はいなかった。多分気後れしていたのだろう。達者で男勝りの女性に苦手意識があるのは今も変わらない。

『斜陽』の「私」の母は上流の女性で、「おきゃん」を厭わしく感じていたことがわかる。山の手育ちの婦人には、人ずれして口達者な下町育ちの娘たちが苦手だったのだろう。おきゃんも度が過ぎれば、活発なだけに、差し障りを生じることがあるかもしれない。

白い花のキョウチクトウなら「おきゃん」には見えない。こちらのほうが夏に相応しいと思うが、繁殖力が弱いのか、ピンクの花の繁衍に較べ植栽数が増えないようだ 。偶に公園で白いキョウチクトウの花を見たりすると「蒲柳の質」の女性に出会ったようで「ドキッ」とする。


★ご注意

キョウチクトウは木にも葉にも花にも猛毒があることが、当記事投稿後何年か経ってから判りました。

絶対に樹液に触れたり、葉や花を食べたり、枯れ枝を燃やさないようにして下さい。

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