娘 :「夾竹桃がたくさんあるじゃないの」私はわざと、つっけんどんな口調で言った。
母 :「あれは、きらいなの。夏の花は、たいていすきだけど、あれは、おきゃん過ぎて・・・
(太宰治[斜陽])より
そうか、キョウチクトウの花は「おきゃん」過ぎるのか・・・
作家の目には、こぼれんばかりに咲き誇る紅色の花が「おきゃん」に映っていたのだろう。
「おきゃん」は、明朗・活発でつつしみがなく軽はずみな娘、端的に言うとお転婆に近いが、「きゃん」は「侠」の読みだから、心意気ある娘の謂でもあろう。
若い女性は淑やかで慎ましくあらねばならない、とされていた時代に意味をもっていた言葉だが、娘たちのほとんどが、当時の「おきゃん」風になってしまった昨今では、この言葉の響きに感応する人は少なくなっていると思う。
私が育った下町には、「おきゃん」な女の子がかなりの割合で居た。下町は必然的に「おきゃん」を養成する。幼い頃から、家族以外の大人たちと常に接し、大人社会と密に触れて育てば、ませてもの怖じせず闊達になり、心意気が表に露われるようになるはずだ。
積極性が身上の彼女らには、独特の魅力があって、男児から一目もニ目も置かれていた。子供心に「おきゃん」を厭う気持ちはまったく無かったが、私は「大人しい」少女に惹かれる質で、「おきゃんな」女友達はいなかった。多分気後れしていたのだろう。達者で男勝りの女性に苦手意識があるのは今も変わらない。
『斜陽』の「私」の母は上流の女性で、「おきゃん」を厭わしく感じていたことがわかる。山の手育ちの婦人には、人ずれして口達者な下町育ちの娘たちが苦手だったのだろう。おきゃんも度が過ぎれば、活発なだけに、差し障りを生じることがあるかもしれない。
白い花のキョウチクトウなら「おきゃん」には見えない。こちらのほうが夏に相応しいと思うが、繁殖力が弱いのか、ピンクの花の繁衍に較べ植栽数が増えないようだ 。偶に公園で白いキョウチクトウの花を見たりすると「蒲柳の質」の女性に出会ったようで「ドキッ」とする。
★ご注意
キョウチクトウは木にも葉にも花にも猛毒があることが、当記事投稿後何年か経ってから判りました。
絶対に樹液に触れたり、葉や花を食べたり、枯れ枝を燃やさないようにして下さい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます