4ヶ月ほど前のこと、小泉武夫著「発酵食品礼賛」を読んで、スウェーデン北部の名物にシュールストレミング(Surströmming)という食べ物があることを知った。その食品は、バルト海産のニシンの身を開いて塩漬けにし、充分発酵させたうえで缶詰にしたもので、一般の缶詰と違って加熱殺菌をしない。したがって、中身は封入後も発酵し続け、大根の糠漬け・くさや・鮒ずし・チーズ・生ギンナンを混ぜ合わせ、更にそれへ腐ったニンニクを加えたような、猛烈な臭気を生ずると解説されていた。
私は魚介類が好きで、酒の肴に佳いものなら、それがどんなに臭気がきつくても厭わない。むしろその類のものに好物が多い。したがって、この北欧産の発酵食品には少なからず関心を抱いていた。しかし、国内での需要はごく僅か、食品店の店頭で見かけることもないまま、その憶えにくい品名をほとんど忘れかけていた。
ところが世の中は狭いもの、ちょうど私と同じ頃にこの発酵食品に興味を抱いた知人がいて、あるとき、シュールストレミングを手に入れたからと試食の誘いがあった。酒と珍味佳肴を愛することにかけては人後に落ちないこの招待主、ネットでそれを輸入元から取り寄せたという。
人が居るところでは濫りに缶を開けないようにと注意書きにあるとかで、試食の場所は、人里離れた山の中が宜しかろうということになった。
実行は2週間後、それまで互いに防臭対策と副食類、調味料、飲み物等、この難物を無理なく胃袋に納めるための工夫を凝らすことになった。
人気のない山の中で食べることには、ひとつ懸念があった。それはその食品の臭気を慕って、熊が寄って来はしないかということ。アメリカの国立公園で、グリズリー(エゾヒグマの近縁種)がキャンパーの残飯を漁って徘徊したり、テントを押し倒すシーンをテレビで見たことがある。
試食予定地は熊が多数棲息する標高1300mの広葉樹林帯。雑食性の熊が、魚の発酵臭に魅惑されるであろうことは想像するに難くない。だが、何と云っても未知の、それも食に関わる体験とあって、好奇心が懸念に打ち克った。ニホングマは、突然遭遇でもしない限り人を襲わないという説を堅く信じて・・・
早速、ネットでこの食品の食べ方を調べたり、試食の光景を視聴した。YouTubeには内外を問わず数多くの投稿があり、港で、河川敷で、公園での試食のシーンをいくつか見ることができた。缶を開けたとたん、参加者達が絶叫して逃げ惑う映像がほとんどで、落ち着いて缶から中身を取り出し、口に運んで賞味するシーンはごく僅かだった。
いろいろ調べてみると、彼の国スウェーデンでは、この食品を食べるときにアクアビットという蒸留酒を飲むことが多いらしい。その酒は北欧諸国では普通に飲まれていて、ジャガイモを原料とし、それに各種の香草で風味をつけてあるとか。是非ともこの酒を試食に持参したかったが、スウェーデン産のアクアビットは輸入量が少ないのか手に入らず、デンマーク産のもので代用することにした。
遂にその日が来た。副食材や飲み物の外、物々しくマスクやゴーグル(噴出ガス液への備え)まで用意して山に入った。
万緑の真っ只中、試食地はヤブウツギの紅花に彩られ、近くでウグイスが囀り、遠くからツツドリの長閑な声も聞こえていた。案の定、その場の近くには「熊出没注意」の立て看板が設置されていたが、もう後には退けない。先ずは野営の準備をする。
適当な場所へ持参の品々を展開し、彼はおもむろに缶を地上に置いた。私は数メートル退避し、固唾を呑んで缶切りの刃が缶の縁に食い入る瞬間を見守った。
その時、地上に置かれた平べったい缶の形状が地雷に酷似して見えた。高さは5センチ程で直径が普通の缶詰の倍以上あり、上面のフタの部分がやや盛り上がっている形状。発酵で内部のガス圧が高くなっているため、航空機内への持ち込みが禁止されているなど、まさに爆発物並みのシロモノだ。
缶切りの刃が入った瞬間!何も起きなかった。予想していた強烈なガス液噴出と猛烈な臭気が全然ない。拍子抜けとはこのことだった。たしかに心地よい匂いではないが、動画で見せられたほど耐え難い臭いではない。生まれつき我々が臭気に鈍いのか、それとも日頃の食生活で馴致されているからなのか。
さっそく青灰色の背身の一片をナイフで取り上げ、口に入れてみた。素材の味を知るには、調味しない生のままを味わってみるのが一番だ。先ずヌルリとした食感のあと臭気が口内と鼻腔に充満した。塩辛さが勝って旨いとか不味いとかを判別できない。
次ぎに、持参した茹でジャガイモと生タマネギのスライスをライ麦パンの上にのせ、その上に魚身、さらにその上にフェンネル(茴香)の若葉を添えて食べてみた。ジャガイモが塩味を和らげ、タマネギとフェンネルが消臭効果を発揮して、ようやく食物を食べている心持ちになった。合間に食べたザワークラウトにも、臭気を弱める多少の効果はあったようだ。
始めは口内の臭みを洗い流す目的でビールを飲んでいたが、ビールの味とシュールストレミングの臭いの相性が甚だ悪い。試みにアクアビットを水割りにして飲んでみた。
酒に溶けている香草の香りが臭いを弱める効果があって、それからは食が進みだした。他の食品にも時々手を出し、とにもかくにも、缶の中身は残さず平らげた。もしアクアビットがなかったら、残ってしまったかも知れない。
カッコウの声で目覚めた翌朝、野営地の周囲を調べてみた。熊が近くに来た形跡はなく、シカの糞だけが落ちていた。
日頃、体質・風土と食物・酒との深い関係をゆるがせにしない質だが、この特異な食品を口にしてみて改めてその思いを強くした。
ネット上には、シュールストレミングと日本酒の組み合わせがなかなかイケルとの感想もあるらしいが、所詮は異なる風土で生まれ、互いに相性を顧慮することなく個別に育った不縁のモノ同士。結ばれるべくして結ばれた、すなわち風土に依拠した酒と肴の絶妙な組み合わせに勝るとは思えない。
もし再びシュールストレミングを口にするときは、それに適う酒と調理の仕方をもっと調べてからにしたい。そうまでしても、この先我々はシュールストレミングを、鮒ずしやくさや並みに賞味するようにはならないだろう。何と言っても北欧人とは体質が違う。風土が異なる。
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