道々の枝折

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歴史について

2023年12月01日 | 人文考察
歴史の事実、史実というものは、時代を越えて多くの専門家の地道な検証を受ける。時代と体制により様々な評価が下され、その多様な評価が時を経るうち次第に収斂し、一定の理解と認識が定着する。その定着したもの、地道な検証の集大成を、私たちは史実として受け容れている。

それをテレビの脚本家たちが大向こう受けを狙って、長い歳月と多数の専門家の検証と庶民の常識によって定着した認識に、恣意的な新解釈を加え、ストーリーをつくる。史実を勝手に歪ませたり色づけしたりするから、我々庶民の歴史認識を混乱させ、ドラマとしても、実に底の浅い支離滅裂なストーリーが出来上がる。所詮テレビドラマは視聴率目当て、洵に底の浅い歴史ドラマが濫造される。

歴史の専門家は、現在に遺された過去の断片的資料を精査し、史実をより正確に慥かめようとするのが仕事である。それでも推測の域を越えることはできない。仮説でしかない。その推測が事実を捉えているかどうかは、誰にも分からない。そこに脚本家や小説家が自己の見解を差し挟む余地が生まれる。この隙間を活かすことができるのは、優れた創作家にして初めて可能になることである。

歴史上の事件では、当事者が書証を遺すことはほとんどない。事実は歴史の闇に消えるのが普通である。
殆どの歴史資料が伝聞で成り立っている以上、歴史の専門家の仕事の大部分は、資料の信頼性の検証すなわち資料批判に割かれるだろう。
その上で、歴史家は、史実が伝える実情を自らの頭と心で考察する。事件の蓋然性や可能性、そして他の事件との関連性を探るのが、歴史家の本来の仕事である。

歴史を教科書的に常識として知っても、面白くも何ともない。何の為にもならない。それでは歴史への興味と理解を失うばかりである。
私たち一般人は、歴史を学ぶことによって、過去に生きた人々の行為を、今を生きる自分の人間理解の手がかり足がかりにすることができる。それが歴史を学ぶ最大の効用である。

歴史は事実の堆積層ではあるが、その堆積物を自ら確かめることはできない。私たちが歴史を渉猟するときは、怜悧で明徹な頭脳を備えた歴史家の研究の助けを借りなければならない。さもないと、歴史の認識を誤る危険が増えるばかりである。それは結果的にその人の人間理解を誤まらせる。

その時代の当事者の人間模様を、心ゆくまで想像したり事件を推理することは、人間理解のトレーニングに繋がる。人間理解の深さ確実さが、歴史認識をより正しい方向に近づけるのである。それが人類の人事に係る膨大な事件の記録資料たる歴史を今に活かすことである。歴史は、人間とその社会を考える上で、貴重で有益な事象記録の宝庫である。

科学的正確性という点では、歴史家は決め手をもたない。それを科学的に追求できるのは、考古学の範囲までだろう。
歴史学は文学や哲学と同類の人文学であり、真理を探る科学ではない。過去の事実、事件がもたらした結果を具に検証し、そこから人間行動の本質を探ろうとするのである。

私たちは歴史を深読みしなければならない。歴史の事実はその時代の権力者の潤色や脚色はもとより、後の時代の権力者の政治的利用の影響を免れないからである。歴史には常に変成の圧力がかかっている。
歴史文書の批判が歴史研究の仕事の大半になるのは、事件の真実を客感的に識ることがいかに難しいものであるかを教えている。

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1 コメント

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Unknown (yoko-2-1)
2023-12-01 09:44:39
「私、失敗しません」
と「外科医」の「女医」が言うから、視聴率が上がる世界です。
その背後に、
「女神」というれども、「男神」とはいわない世界が広がる事実を、
また、病を定義しない現実について悩んでいる私にとって、ありがたいご投稿を、拝読させていただいております&そのような視点を踏まえてくださるご投稿を拝読するたびに感謝しています。
素敵な記事をありがとうございます。
毎回、勉強させていただいております。
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