忘れてならない記録は書き留めておこう。敗戦から数年(1948年ごろ)後の、私が小学校に入る前のことである。
連合国軍占領下の日本では、米軍の被占領国民宣撫工作の一環として、進駐軍兵士に菓子をもたせ、それを街角で子供たちに配布したり、移動中の軍用車や列車から散布したりした。
私の家から約300mのところに東海道線の踏切があった。浜松駅のプラットホームから西へ約300mの地点に在るこの踏切は、上り下りの列車の通過速度が適度に遅い。列車から菓子を撒くに好都合の場所だったから、部隊の移動で乗車している兵士たちは、この踏切で競って大量の菓子を車窓からばら撒いた。
遮断機の外に待ち構えた多勢の子どもたちと大人たちが、先を争って投げられた菓子を拾う。人々はこれらの菓子を〈進駐軍のお菓子〉と呼んでいた。
〈建て舞い〉や節分の〈豆まき〉で見慣れた光景が、日常的に展開された。子どもたちは連日、収穫を競い合う。
建て舞いや豆まきの習慣の無い国の人々から見たら、敗戦国の悲惨なシーンに見えるかも知れないが、菓子拾いに抵抗感のないわが同胞は、嬉々として大人も子供も菓子を拾った。
当時のアメリカ製の菓子は、原料・味共に日本のものと格段の差があった。アメリカの菓子を食べたら、原材料の貧困な国産菓子は食べられたものではなかった。子どもたちはアメリカの菓子に魅了され、GIに親近感を覚え、アメリカの文化に憧れを抱くようになった。宣撫工作の成功である。
私の祖母は明治の生まれで、皇国史観の義務教育を受けて育った。軍神乃木希典を尊敬し、楠木正成を崇拝していた。国民は天皇の赤子という教えを信じていた。戦争中は浜松に基地のあった陸軍飛行隊の将兵を、個人的に応援したりしたガリガリの軍国婦人で、戦後も心底から米国人を憎んでいた。
彼女は、旧敵兵の撒く菓子に群がる
同胞の姿を、見るに堪えなかったに違いない。私が遊び仲間と菓子を拾いに行くことを決して許さなかった。懇意だった軍人・兵士・軍属を多数失った悲しみがまだ残っていたのだろう。昨日までの仇敵がばら撒く菓子に、大人までもがプライドを捨てて群がる姿は、祖母の目には悲惨な光景に映ったに違いない。孫が旧敵兵の撒く菓子を拾う姿だけは、絶対に見たくなかったのだろう。
小学校に入ると、生徒全員がシラミを駆除するためのDDTを大型噴霧機で振りかけられた。この薬に発がん性があることなど、知られていない時代である。
学年が2つ上がると、学校給食が始まった。米国の援助物資の飼料用脱脂粉乳は、不味くてとても飲められたものではなく、馴れるまでは、吐き戻す同級生もかなりいた。今からは考えられない酷い時代だったが、無邪気な子どもたちは、存外平気だった。
そんな時、当地浜名郡雄踏町(現浜松市西区)出身の古橋広之進氏が、日大在学中の1947年から49年にかけて、水泳の自由形の非公認記録(旧敵国は国際水連から世界記録の公認を得られなかった)を含め400m・800m・1500mの自由形で世界記録を超える記録を連発した。国際水連復帰後の1949年8月に招待された全米選手権大会では、400m自由形、800m自由形、1500m自由形で世界新記録を樹立し、アメリカの新聞で「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた。古橋選手は、敗戦に打ちひしがれた大人たちにプライドを取り戻させ、子どもたちのヒーローになった。この時を境に、日本の世相は明るくなった。プライドは大切である。
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