道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

畏敬の念

2020年12月23日 | 人文考察
正月が近づいて来た。
今年はコロナ禍で、正月三が日に初詣客が集中しないよう、神社への参拝は年内でも来年でも随意の時でよいと、神職がテレビのインタビューに答えていた。
分散参拝はこれまで聞いたことがないが、国家の危急の時となると、そこは神様、物分かりが良い。融通無碍、それが神道の好いところだろう。

日本人は初詣をしないと、新年を迎えた気がしない。それだけ、神祇信仰が心の基層に染み込んでいると思う。
800年以上もの昔、なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」と、伊勢神宮に参拝して詠んだ西行と、今日の私たちの感覚は変わらない。
神社の境内に一歩足を踏み入れると、厳かさを感じ、敬虔の念いを抱く。800年の時を隔てても、西行と同じ感覚を私たちが共有できるのは、不思議なことである。

先年九州の某神社に参拝したおり、観光に来ている若い青年男女のグループと出会った。日本の若者の参拝者と姿形は変わらないが、新緑の境内を歩む姿を遠目に見ただけで、すぐに同胞で無いと知れた。一行は「かたじけなさになみだこぼるる」念いを些かも感じていないことが、明らかに看て取れたからである。近づくとハングル語が聴こえてきた。

わが国も韓国・中国も、宗教的には祖霊信仰を脱し切れていないが、ひとりわが国だけは、自然崇拝と祖霊崇拝とを神道に昇華させた。神社の境内に入ると、私たちは遠い先祖が感じたであろう畏れを体感することができる。あり得ないことだが、もし各地の神社が御利益宗教の構成部分を解き去り、賽銭箱を取り払うなら、私たちは神社境内に入った途端、エゴイズムから解放されるだろう。まさに伊勢神宮での体験がそれである。

おそらく今世紀中には、日本人も中国人・韓国人も、同じ職場で共に働くことが普通になると思われるが、言葉を聴かなくても、同胞にはすぐ見分けがつくだろう。それは、敬虔を体感して来たかどうかのムードの違いに由るものである。

神社がある限り、西行の感懐の時を遥かに遡ること2000年近くも前から、日本人が心の基底に保ち続けて来たものが、それを容易にするに違いない。

日本語の美しさ、仮名文字の流麗さと共に、世界の何処にいても、わが同胞人の神祇を畏む心は、失われることはなさそうだ。

このことは、キリスト教の人々であれイスラム教の人々であれ、敬虔の念いを肌で知る人々と親和し信頼関係を築くうえでは、非常に大事なものになってくると考える。


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