道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

150年を見直す

2020年12月26日 | 随想
目下の政治状況の混迷は、過去と無縁ではない。現在は、幾多の歴史的事実があざなわれた縄の先端である。過去と繋がりのない現在は無い。思想の連続性に考慮すると、昔を考えること抜きに、今を考えることはできない。

明治維新は、周到な計画と準備のもとに実行された革命ではなく、薩長の下級武士たちと朝廷の下級公家たちが手を結んだ、理念なき権力の奪取劇だった。もし彼らに共通の願いがあったとすれば、それぞれが属す集団の堅く厚いヒエラルキーを覆すことだったろう。

遭遇戦に始まった鳥羽伏見の戦いは、徳川慶喜の逃亡という敵失もあって、結果として戊辰戦争の勝利を官軍(倒幕軍は自らをこう呼んだ)にもたらした。朝敵の汚名を着て権力を維持できた者はこの国には居ない。
そこは、アメリカ合衆国が理念に基づいて建国成立した点と大きく異なる。

幕末の尊王攘夷は大義でなく、明らかに倒幕のための方便だった。開国を進める幕府への反抗であり、したがって攘夷から開国への急な変節も、理念なき現実対応だった。
欧米列強の艦隊との戦闘で惨敗し、軍事力の劣勢を身をもって悟った薩摩・長州2大藩の危機感が、攘夷派を抑え開国を推進させる原動力になった。

日清戦争は、国力の衰微した清国との戦争、日露戦争は、ロシアを牽制する英・米両大国はじめ列強やトルコの、有形無形の支援を得て辛勝したというのが、当時の西欧諸国の共通認識だった。明治政府にとっては、ロシア国内の革命に伴う内紛に助けられた、薄氷を踏む思いの戦争だった。その結末は勝利でなく、米国の仲介による講和だった。この戦争は、近代日本とって乾坤一擲の全面戦争だったが、英・米両大国の手の中で行われた、ロシアの極東方面軍との局地戦という認識が正しいと思う。

維新の日本は立憲君主制を敷いたが、君主の権能を縛る目的の本来の立憲君主制の憲法というよりは徳川幕府の絶対君主制を踏襲するものだった。欽定憲法は君主を制約するよりも、専ら国家が人民を支配するに都合よくつくられた。義務教育制によって、国民に皇国史観を植え付け、富国強兵策を推進した。

日露戦争を勝利?と受け止めたこの国は、西欧に対する劣等感を払拭し、軍事力で彼らと対等になることを目指した。それは大正・昭和と時代を経るに従い強化され続け、軍事を最優先する軍国主義を招き、軍部と呼ぶ軍人官僚の支配する軍国国家をつくりあげた。国民の大多数は、太平洋戦争に敗戦するまで、この押し付けられた国家の思想に反発する事なく、自らの旧来の思想と錯覚したまま敗戦を迎えた。

敗戦後の日本では、連合国の指図により、戦争に加担した個人と団体・組織の関係者たちの公職追放が行われた。二度にわたる改正勅令で、公職の範囲は広げられ、戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になった。その結果、戦後3年間の1948年5月までに、20万人以上が公職を追放された。つまりその時点で、日本には、思想的に民主主義と相容れない、官尊民卑の反動的思想の守旧派が、一時的に社会の表舞台から消えたということである。彼らは戦犯になることを怖れていたから、反社会的行動や言動を控え、一時的に社会の隅に身を潜め、再起の時を待った。

これら公職を追放された人たちは、1952年までには追放解除となり、日本の社会に復帰した。朝鮮戦争で、ソ連の支援を受けた中共軍に苦戦を強いられたアメリカは、中華人民共和国を太平洋の新たな仮想敵に据えた。日本に対する政策は、民主化よりも防共化、対中共化を優先させる方向に転換された。

戦勝国アメリカの期待に反し、敗戦は日本国民の多くにとって、専制からの解放とは受けとられなかった。為政者も国民も、自身と自国が招いた惨禍の真の原因を反省することなく、敗戦のショックで思考停止状態に陥った。その思考停止の中で、敗戦を終戦と言い換え、折しも突発した朝鮮戦争の特需景気による経済の押し上げ効果を受け、外形的な面での戦災復興を短期間で実現させた。

戦勝国アメリカの民主化政策によって、民主主義が国家づくりの基本となった。しかし思想的自由を知らず民主のミの字も知らなかった戦前生まれの国民の大多数は、形だけの民主主義の諸制度の下で、非民主的な戦前の旧思想を心中深く秘めたまま、新たな生活目標を模索し始めた。思想というものは連続性がある。それは、公職追放から復帰した、旧の政治・経済指導者たちの社会的復活と軌を一にしていた。

追放されていた特権派・守旧派は、旧思想を慕う大衆の支持や旧軍時代の人的な繋がりにより、それぞれ旧時代での職席と関連ある職に就き、再び地位を得た。結果として追放解除は、旧思想の反省の機会と場を、社会から消し去った。そして旧思想の是認と戦前体制回帰への保守勢力の結集が表面化した。一般大衆は躊躇うことなく、民主主義の衣を纏った彼らの復活を歓迎した。

公職追放者らは、アメリカの軍政からパージされたものの、日本の社会からは何らパージされていなかった。日本はその時から、学校での民主主義教育が徐々に形骸化して内容が空疎になり、民主的な活動が影を潜めるようになった。

経済の発展は、敗戦のトラウマを国内から一掃することに寄与した。東京オリンピックのファンファーレは、新生日本を世界に知らせると同時に、明治以来の国体に固執する人々が渇仰する社会への、復古を高らかに告げる密やかな合図でもあった。

国を破滅させた人たちとその後継者たちは、この国の民主的勢力に「アカ」のレッテルを貼り異端視し、反共を煽ることで、旧思想の復活を目論んだ。1955年以降の日本の政治は、現在に至るまでその潮流の中に在り、戦前の国家主義的な思想を構築した人々の末裔が、現在も政治権力を保ち、大きな実権を握っている。

国民の間では、新旧の思想的対立が固定化し、刷り込まれた旧思想の連続を護持する人々と、時代に適合した普遍的な価値観、民主主義の思想を堅持する人々とが対立し、分断構造が続いている。その構造が、この国の体制と国民の意識のうえに、アンビバレンツな影を落とし続けて来たことは間違いないだろう。
民主主義を構築する努力と痛みを何ひとつ体験していない社会は、表面は民主的形態に変わったものの、時に応じて非民主的な貌を覗かせる、特異な社会体質をつくりあげた。

長いものに巻かれることを厭わない事大主義に凝り固まった民族的心性は、けっして変わることはないだろう。戦後に民主主義を学んだ人々が社会から退場するに従い、民主主義に対する知識と理解の程度がますます希薄になりつつある。本家本元のアメリカですら、民主主義はポピュリズムの前に揺らぎを見せることがある。

この国では戦後20年ほどの間、親子間の思想的断裂があったが、その後二代三代と代を重ねるうちに、旧来の思想が不死鳥のように蘇えりつつある。自分たちで築き上げた民主思想をもたない現代の日本国民は、思想的には常に浮遊状態にあり、ポピュリズム政権、全体主義政権が生まれる危険性は増している。

もともと、日本人の心性に違和感なく受け入れられていた皇国史観というものは、民主主義と根本的に対立する概念である。現代日本の政治行動が、先進の民主国家から首をかしげられることがあるのは、民主主義国の人々の心性と私たちの心性との間に、埋めようのない根本的な隔たりがあるからである。そのことを、国際社会の一員になる若い人々は、熟知していなければならない。

日本社会の指導層の考えは、戦前戦後を通じて根本的には変わっていない。アメリカの顔色を相変わらず伺っているが、その制約の範囲内で、国体を旧の形に戻そうとする力が働いている。それは、前の東京オリンピックが開催された年から続いていて、コロナ禍でも東京オリンピックを開催しようとする執着心に繋がっている。

政権のプロパガンダによって洗脳され続けた私たちの父祖世代は、戦前戦後を通じて、子弟が共産主義・社会主義に染まることを何よりも怖れた。そのような国民にとって、民主主義は自ら求めて手に入れたものでなく、それを堅持する意思は薄弱だった。戦前の教育は国民の骨の髄まで染み込んでいて、民主主義の浸透する余地は、残念ながらまったく無かったというのが事実だろう。

要するに日本国民は、戦争を惹起した歴史を自ら慥かめ、国民的反省の上で問題の本質を剔抉することなく、歴史事実の歪曲を容認し、刷り込まれた思想を糺すことなく、今なお我が思想と思い込んで墨守しているように見える。

人は一貫した思想をもたないと、アイデンティティを失い、ある種ヌエのような存在になる。人間は思想の連続性の下に生きるのでなければ、精神的化け物になってしまうのである。刷り込まれた思想であっても、その人の脳裡で生き続け、子弟に大きな影響を与え続けていることを、考えなければいけない。

国会の調査委員会での高級官僚の答弁を聞いていて、理念をもたない鈍麻した精神が、この国のエスタブリッシュメントの一角を担っていることを改めて痛感し、慄然とする思いに捉われた人は多いだろう。

新型コロナウィルス禍という、未曾有の大難に見舞われ、それに対する政治の不手際混乱ぶりを目の当たりにする今こそ、日本の近現代の150年に思いを凝らす好機ではないだろうか?







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