愛したかどうかは 己のものである愛されたかどうかは 確かめるものでなく 感じ取るものだ人にとって大切なのは 愛されることでなく 愛することである愛することで 人は幸福を得る愛されることでは 幸福になれない愛を失う虞が 常に付き纏うからだ愛したことへの反対給付の愛なら 愛されない方が好いだろう愛されることに貪欲な人生は 不毛の荒野である愛する人生は 豊穣の沃野である . . . 本文を読む
全て人間の個性には、千差万別の違いがあるものだが、それは本質的に出来の違いと質の違いがミックスされているもののように思う。「出来の違い」は明瞭に外に顕れていて、自ら認めまた他からも認められるものである。体格、容貌、知力、体力、誰の目にも歴然として分かる。人が個性と感じるものの大部分が、これに該るだろう。それに対して「質の違い」は、表に顕われるものではない。感性、美意識、情操など、差異が微妙で本人で . . . 本文を読む
人の発想は様々である。それぞれの発想の源泉というものは、安定して湧き出しているものだろうか?はたして人は、原点とか基準とかいうものを基にして、日々発想しているのだろうか?生い立ち、親兄弟、成長過程、教育、職業、社会生活その他諸々の因子が混ざり合って人となりが形成される。発想の原点(基準)というものがあるなら、潜在意識の下に存在して、浮動しながらもその定点は外れないものであるに違いない。それがその人 . . . 本文を読む
当ブログを始めるに当って敢えて「政治」のカテゴリを設けなかった。政治に関するブログ記事は書くまいと心に決めていたからである。そのことは間違いでなかったように思う。この10年間の日本の政治の有様は、前代未聞の惨状を呈していたから、当ブログの記事投稿は、政権批判一辺倒になっていたことだろう。この期間の治世で、賞賛したり得心できることは殆どなかった。政治家の独断専横とそれに阿ね協力する官僚の扈従ぶりが、 . . . 本文を読む
私たちは普段、律儀でしかつめらしく暮らしている。その反動から、たまの宴会とか行楽となると、無礼講というものが不死鳥のように蘇り、その場の雰囲気をリードする。無礼講の無い宴会など楽しくないから御免だ、と思うのは私ばかりではないだろう。講とは集団を組むことであるから、無礼講とは礼を弁えない集団の意味である。集団を組んで飲んではしゃいで騒ぐから、楽しいのである。多少はめをはずしても皆(講=集団)が楽しけ . . . 本文を読む