道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

無礼講

2021年04月13日 | 人文考察

私たちは普段、律儀でしかつめらしく暮らしている。その反動から、たまの宴会とか行楽となると、無礼講というものが不死鳥のように蘇り、その場の雰囲気をリードする。無礼講の無い宴会など楽しくないから御免だ、と思うのは私ばかりではないだろう。

講とは集団を組むことであるから、無礼講とは礼を弁えない集団の意味である。集団を組んで飲んではしゃいで騒ぐから、楽しいのである。多少はめをはずしても皆(講=集団)が楽しければ許されるのが日本の伝統的宴会の姿である。

祭りも一種の無礼講の大規模かつ組織的なものであって、普段は神に敬虔神妙であることの反作用として、常には控えている無礼が許される。神事を全うすることで許される無礼講が、祭礼の娯しみであり目的でもある。
古来日本の神事は、厳粛と騒擾という両極端が対になっていている。

高校の2年か3年の頃、日帰りのバス旅行があった。バスの中では一人一人にマイクを回して歌を唄い合い、大いに盛り上がった。今思うと、無礼講の状態になっていたのだろう。常には謹厳な担任の先生も、この日ばかりは車内の騒ぎを大目に見てくれていた。

調子に乗ったクラスメートのひとりが、仲間に云うのと同じ調子で、「おい!〇〇(先生の渾名)!何か歌え!」とやってしまった。先生は和やかに無視した。私は「これはマズイ」と思った。

バスが学校について車から降りる時、案の定、彼は「△△!お前は残れ!」と先生に言われ、顔をこわばらせながら職員室へ消えた。
他の生徒たちはクスクス笑いながら「あれはマズかったよなぁ」と言い合い、連れ立って帰って行った。

社会人は無礼講だからといって、乗りすぎると後が怖い。企業の宴会では、無礼講での失敗談は跡を絶たない。左遷された人もたまにはあるに違いない。無礼講そのものが弊習であるのだから、佳いことが生まれるはずがない。無礼講を黙認するような宴会は、早晩日本の社会から消えて無くなるだろう。


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