全て人間の個性には、千差万別の違いがあるものだが、それは本質的に出来の違いと質の違いがミックスされているもののように思う。
「出来の違い」は明瞭に外に顕れていて、自ら認めまた他からも認められるものである。体格、容貌、知力、体力、誰の目にも歴然として分かる。人が個性と感じるものの大部分が、これに該るだろう。
それに対して「質の違い」は、表に顕われるものではない。感性、美意識、情操など、差異が微妙で本人でも気づかない感覚的なものである。却って他人によってそれを認められることの方が多い。何気ない振る舞いや言葉にならない感動、そして究極的には思想がその中核ということになるだろう。
「出来」がその人の能力だとすれば、「質」は人格ということになるだろうか?これらの違いは、殆どが先天的な素質というものに含まれる。
ところが「出来」の大部分と「質」のある部分は、学問・修行で後天的に身につけることができると考えた人たちが、古代中国に現れた。
その時代の中国人は、勉学と修行、この二つに精進努力すれば、人は誰でも理想的人間=聖人に達することができると考えた。最も勉学し修行した者が最高の学識と道徳を身につけると夢想した。いかにも観念優先の中国人らしい考え方である。
この観念論を学問らしき体裁に整え書物に纏められたものを中国人の学究たちは学んだ。私たちの先祖も、当時の最先進国のインテリの考え方を批判することなく学び、幕末に至るまでその教えを金科玉条として守り続けた。
その非科学性・非合理性は、現在の私たちの内面に染みつき、開明への障害をもたらしている。本家本元では当然ながらその障害は更に大きく、世界的規模で対立と緊張を生み出し、独裁国家ゆえに省みるところが無い。経済力の発展が、一様なイデオロギーを推し進め、覇権主義に凝り固まった偏狭で自己本位な国家運営を生み出している。
紀元前にユーラシア大陸の西側で練られた思想と、東側で練られた思想の根本的違いは、永い時の営みを経て、一方は文明への道を開き、他方は文明への道を閉ざしたと見るのが、正しい認識ではないだろうか?
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