2004年10月に出版された古い本の紹介です。
柳澤桂子さんの著作「生きて死ぬ智慧」(心訳般若心経)は、次の文章から始まる。
ひとはなぜ苦しむのでしょう………
ほんとうは
野の花のように
わたしたちも生きられるのです
もし あなたが
目も見えず
耳も聞こえず
味わうこともできず
触覚もなかったら
あなたは 自分の存在を
どのように感じるでしょうか
これが「空(くう)」の感覚です
この後、柳澤さんによる般若心経の現代語訳が続く。
妹の葬儀では、母の大胆な提案で、お寺さんを呼ばなかった。
列席いただいた方の弔辞をいただくとともに、兄弟3人で分担して、この本を朗読し、最後に全員でお経の般若心経を唱えた。
本当に身内と親しい人のみの、手作りの葬儀であった。
通夜の前に、母からの朗読の依頼によって先ずこの詩に眼を通したとき、般若心経の量子力学的な解釈を、見事に詩にしているのに感心した。
そして通夜の席で初めて朗読した時、美しくも難しい言葉の羅列で、論理的な飛躍があるにもかかわらず、口からきらめく音が流れ出て、眼の前に荘厳な宗教的空間が広がった。
妹に語りかける言葉として、真に合致しているのに驚いた。そして私はその響きに陶酔感を感じた。
葬儀での二度目の朗読では、言葉につまり、危うく立ち往生するところであった。
マイクに載った私の声が、自分自身は口をぱくぱくさせているだけなのに、空間を覆い尽くすように共鳴し、意識を歪ませ、身体を揺り動かした。
その後、ちらちらと読んではいたのだが、やや恐怖感に似た感情もあり、真剣に読むのは控えていた。
そして母も、葬儀の際は妹の時と同様にすることを遺言し、そのようにした。
その後は、折につけ仏壇の前等で音読したり、黙読したりしている。
先日 久しぶりにこの本を開いた。
この柳澤さんの本は、釈迦の用意した心経という入れ物の中に、柳澤さんが新しい解釈という名のもとに彼女自身の世界観を提示している。そして文章に添えられた堀文子さんの絵が、心象風景にピタリとはまる。
むしろ素のお経をもとに柳沢さんが選んだ言葉、また追加された言葉で構成することによって、まったく新しい宗派ができてしまったぐらいの、もの凄いものなのでないかとおもった。
ところで、その追加された「野の花のように わたしたちも生きられるのです」という言葉、柳澤さんは35年以上病に苦しみ、また神秘体験もされたということで、確信をもたれた言葉なのだろう。
ただ、私はその理想も感じつつ、また別の考え方もあるなと迷うこともあります。でも迷いながらもいい年になってしまい、そろそろ私の締めくくり方を、父や母の例を参考に準備しなければとも思っています。
この本は、眼で文字を追っても、小さな声で頭の中に言葉を響かせても、ちゃんとした声で朗読しても、眼を瞑って朗読を聞いても、美しい言葉が、自分の存在する空間の中を、輝き揺れ動きながら漂うのを感じます。特に音読すると、言葉の作用/反作用の力を受けて身体が揺れ動くとか、逆に世界が揺れて自分がそこに宙ぶらりんで静止しているように感じます。
本の情報
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093875219/clickassist-22/ref%3Dnosim/249-9205315-0324366
柳澤桂子さんの著作「生きて死ぬ智慧」(心訳般若心経)は、次の文章から始まる。
ひとはなぜ苦しむのでしょう………
ほんとうは
野の花のように
わたしたちも生きられるのです
もし あなたが
目も見えず
耳も聞こえず
味わうこともできず
触覚もなかったら
あなたは 自分の存在を
どのように感じるでしょうか
これが「空(くう)」の感覚です
この後、柳澤さんによる般若心経の現代語訳が続く。
妹の葬儀では、母の大胆な提案で、お寺さんを呼ばなかった。
列席いただいた方の弔辞をいただくとともに、兄弟3人で分担して、この本を朗読し、最後に全員でお経の般若心経を唱えた。
本当に身内と親しい人のみの、手作りの葬儀であった。
通夜の前に、母からの朗読の依頼によって先ずこの詩に眼を通したとき、般若心経の量子力学的な解釈を、見事に詩にしているのに感心した。
そして通夜の席で初めて朗読した時、美しくも難しい言葉の羅列で、論理的な飛躍があるにもかかわらず、口からきらめく音が流れ出て、眼の前に荘厳な宗教的空間が広がった。
妹に語りかける言葉として、真に合致しているのに驚いた。そして私はその響きに陶酔感を感じた。
葬儀での二度目の朗読では、言葉につまり、危うく立ち往生するところであった。
マイクに載った私の声が、自分自身は口をぱくぱくさせているだけなのに、空間を覆い尽くすように共鳴し、意識を歪ませ、身体を揺り動かした。
その後、ちらちらと読んではいたのだが、やや恐怖感に似た感情もあり、真剣に読むのは控えていた。
そして母も、葬儀の際は妹の時と同様にすることを遺言し、そのようにした。
その後は、折につけ仏壇の前等で音読したり、黙読したりしている。
先日 久しぶりにこの本を開いた。
この柳澤さんの本は、釈迦の用意した心経という入れ物の中に、柳澤さんが新しい解釈という名のもとに彼女自身の世界観を提示している。そして文章に添えられた堀文子さんの絵が、心象風景にピタリとはまる。
むしろ素のお経をもとに柳沢さんが選んだ言葉、また追加された言葉で構成することによって、まったく新しい宗派ができてしまったぐらいの、もの凄いものなのでないかとおもった。
ところで、その追加された「野の花のように わたしたちも生きられるのです」という言葉、柳澤さんは35年以上病に苦しみ、また神秘体験もされたということで、確信をもたれた言葉なのだろう。
ただ、私はその理想も感じつつ、また別の考え方もあるなと迷うこともあります。でも迷いながらもいい年になってしまい、そろそろ私の締めくくり方を、父や母の例を参考に準備しなければとも思っています。
この本は、眼で文字を追っても、小さな声で頭の中に言葉を響かせても、ちゃんとした声で朗読しても、眼を瞑って朗読を聞いても、美しい言葉が、自分の存在する空間の中を、輝き揺れ動きながら漂うのを感じます。特に音読すると、言葉の作用/反作用の力を受けて身体が揺れ動くとか、逆に世界が揺れて自分がそこに宙ぶらりんで静止しているように感じます。
本の情報
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093875219/clickassist-22/ref%3Dnosim/249-9205315-0324366
宗教について、日本人は冠婚葬祭の時だけ、特にお葬式、法事の時だけというのが多いですね。特に若い人はほとんど関心ないというが普通です。
でも、そういう若い人も年を重ねると関心を持つようになるのでしょうね。
お心のこもったお見送りをなさったのですね。
陶酔感の漂う、荘厳な空気感に包まれて…。
「輝き揺れ動きながら漂う」言葉。機会を見て手に取ってみたいと思いました。
折しも『捨ててこそ 空也』を読み始めていたところでした。
「空とは…」「空也」くうなり、くうや。
いちいち何度も??と思いを止めながらになってしまうのですが、梓澤さんの世界に思いを置いています。
ご縁に感謝いたします。ありがとうございました。
世界では、DNAに宗教が書き込まれているかのようですが、日本の現在は国外から見たら不思議でしょうね。
もしかすると日本人は、生から死で終わるのではなく、死んでもそのあたりにいて、生きている人とともに生きている・・・つまりは連続性があると感じているかもしれません。
詩を読んだ私たち兄弟3人はみんな理科系ですが、柳澤さんの選んだ言葉は、理科系として納得できる言葉で、なるほどなるほどと思いながら読みました。声に出して読むとこんな響きがするのかと感動しました。
梓澤さんの本は知りませんが、空也上人は口から仏像が飛び出してくるという像で有名で、親鸞聖人の先駆者ともいわれています。
私も読んでみたくなりました。