先日 愛知県美術館にいった時は、岡本太郎展を観賞するとともに2022年度第3期コレクション展を見てきました。後者は木村定三の蒐集した熊谷守一と木村柳南の作品、そして愛知県美術館がコロナ禍での若手作家支援のために購入した作品とやはり若手の徳冨満の作品を展示していました。
今回は、木村定三の熊谷守一コレクション展示について、書きます。
木村定三は、1913年生まれの農業関連製品の仲買をしていたお金持ち事業家のお坊ちゃん。優秀で東大を卒業し高等文官試験に受かるも、官僚の道は選ばずに家業に参加し、やがて建設業を始めることとなる。働き出して暫くしてから、美術品のコレクションをはじめ熊谷守一、小川芋銭、浦上玉堂など、日本近世・近代の作品に北魏石仏等古美術品などを蒐集した著名なコレクターとなった。
特に1938年、25歳時の熊谷守一の日本画の個展で感銘を受け、蒐集のきっかけとなっている。下図が木村がその個展で観て、最初に入手した絵。動物と植物の交流の優しさを感じる。
熊谷守一は、事業家から政治家となった富裕層の家に1880年に生まれた。しかし18歳以降は絵画の道を志し、家の支援を受けずに極貧の状態で気分に任せて絵を書くだけの生活をした。
その結果5人の子供のうち3人が病気で死亡、特に48歳(1928年)で次男が肺炎で治療が受けられず死亡した亡骸を絵画に描いて、自分は鬼だと気づき愕然としたという。
絵画は元は洋画でフォービズムの作家として評価が高かったが、1938年(58歳)に毛筆を持ち初めて日本画を書き始めた。そして初めて個展を開催したことで、前述の25歳の木村と出会ったわけである。その頃は熊谷はまだ有名ではなかったが、もうほとんど仙人のようになっていて、その後明確な輪郭線と平滑な色調の独自の様式(ほとんど抽象画のような具象画)を確立し文化勲章授与の対象となったが、辞退した。
絵は、この展示会にはなく、大原美術館にある。確かにフォービズムの作品。
木村は“法悦感”と“厳粛感”を第一義とする独特の芸術観を持っていて、前者を代表する画家として小川芋銭と池大雅、後者の画家として浦上玉堂と与謝蕪村、そして両方兼ね備えた画家として熊谷守一を挙げた。
そういった意味で木村のコレクション(200点を越える日本最大)は、洋画から日本画そして書や陶芸まで熊谷の後半生の非常に重要なコレクションをなしている。
展示されていた絵画はほとんど色紙よりも少し大きな程度の絵だった。そして書や陶芸と合わせて40点程度の大きな部屋1室の展示会。
以下に興味を持ったものを、時系列で示す。
多分雨滴が水面に落ちだしたところを、、前述の明確な輪郭線と平滑な色調の独自の様式で描いた絵画。金色を使っていて抽象的だが豪華な感じ。
展覧会でこの作品を天皇が御覧になって、「この作者はいくつぐらいですか」とお尋ねになったとのこと。そしてその話を聞いて、熊谷は非常に喜んだそうだ。彼は無造作、無技巧に見えるように書きたいとおもっていた。この絵は現代アートそのもので濃い茶の部分が効いている。
チューブから出した線状の絵具を、そのまま紙面に並べた絵画で十ても面白い。
若いころ樺太にいった時、日本兵士の土饅頭の墓を見たのを73歳になって書いたもの。すっきりした色合い。私は砂漠を歩く哀愁のゴジラとぱっと観た時、イメージした。
白銀を思わせる背景にカラフルな色彩配置が素敵。
日本画として描いているが、滲みの墨に綺麗な色彩。85歳になったころ、こんな感じの悟った絵を書きたい。
おわりに
この日は、岡本太郎、熊谷守一、そして最近の若手の画家を観た。
岡本太郎は、空間を支配するような大作を作って観賞者を外から囲んで非日常へ飛び込めと促しているようである。
それに対し熊谷守一は、小さな作品をするっと心の中に飛び込ませ、普遍的なここちよさを与えてくれる。
ともに現代の人々に働きかけようとする作品である。それに対して最近の若手の作品はいろいろやっているが、迫力がないなと思った。もっと頑張ってほしい。
木村の“法悦感”と“厳粛感”という芸術感は、発想自体とても興味がある。なんといっても若干25歳で、58歳の世に出てない仙人のような画家の凄さを見出し、その後もずっと交流を続けたという美を見出す才能はどうやって構築されたのだろうか。
今回は、木村定三の熊谷守一コレクション展示について、書きます。
木村定三は、1913年生まれの農業関連製品の仲買をしていたお金持ち事業家のお坊ちゃん。優秀で東大を卒業し高等文官試験に受かるも、官僚の道は選ばずに家業に参加し、やがて建設業を始めることとなる。働き出して暫くしてから、美術品のコレクションをはじめ熊谷守一、小川芋銭、浦上玉堂など、日本近世・近代の作品に北魏石仏等古美術品などを蒐集した著名なコレクターとなった。
特に1938年、25歳時の熊谷守一の日本画の個展で感銘を受け、蒐集のきっかけとなっている。下図が木村がその個展で観て、最初に入手した絵。動物と植物の交流の優しさを感じる。
「蒲公英に蝦蟇」 (1938年)
熊谷守一は、事業家から政治家となった富裕層の家に1880年に生まれた。しかし18歳以降は絵画の道を志し、家の支援を受けずに極貧の状態で気分に任せて絵を書くだけの生活をした。
その結果5人の子供のうち3人が病気で死亡、特に48歳(1928年)で次男が肺炎で治療が受けられず死亡した亡骸を絵画に描いて、自分は鬼だと気づき愕然としたという。
絵画は元は洋画でフォービズムの作家として評価が高かったが、1938年(58歳)に毛筆を持ち初めて日本画を書き始めた。そして初めて個展を開催したことで、前述の25歳の木村と出会ったわけである。その頃は熊谷はまだ有名ではなかったが、もうほとんど仙人のようになっていて、その後明確な輪郭線と平滑な色調の独自の様式(ほとんど抽象画のような具象画)を確立し文化勲章授与の対象となったが、辞退した。
参考掲載「陽の死んだ日」(1928年)
絵は、この展示会にはなく、大原美術館にある。確かにフォービズムの作品。
木村は“法悦感”と“厳粛感”を第一義とする独特の芸術観を持っていて、前者を代表する画家として小川芋銭と池大雅、後者の画家として浦上玉堂と与謝蕪村、そして両方兼ね備えた画家として熊谷守一を挙げた。
そういった意味で木村のコレクション(200点を越える日本最大)は、洋画から日本画そして書や陶芸まで熊谷の後半生の非常に重要なコレクションをなしている。
展示されていた絵画はほとんど色紙よりも少し大きな程度の絵だった。そして書や陶芸と合わせて40点程度の大きな部屋1室の展示会。
以下に興味を持ったものを、時系列で示す。
「雨滴」 (1940年)
多分雨滴が水面に落ちだしたところを、、前述の明確な輪郭線と平滑な色調の独自の様式で描いた絵画。金色を使っていて抽象的だが豪華な感じ。
「伸餅」 (1949年)
展覧会でこの作品を天皇が御覧になって、「この作者はいくつぐらいですか」とお尋ねになったとのこと。そしてその話を聞いて、熊谷は非常に喜んだそうだ。彼は無造作、無技巧に見えるように書きたいとおもっていた。この絵は現代アートそのもので濃い茶の部分が効いている。
「裸婦」 (1954年)
チューブから出した線状の絵具を、そのまま紙面に並べた絵画で十ても面白い。
「土饅頭」 (1954年)
若いころ樺太にいった時、日本兵士の土饅頭の墓を見たのを73歳になって書いたもの。すっきりした色合い。私は砂漠を歩く哀愁のゴジラとぱっと観た時、イメージした。
「百日草」 (1958年)
白銀を思わせる背景にカラフルな色彩配置が素敵。
「蝶にゼラニウューム」 (1965年)
日本画として描いているが、滲みの墨に綺麗な色彩。85歳になったころ、こんな感じの悟った絵を書きたい。
おわりに
この日は、岡本太郎、熊谷守一、そして最近の若手の画家を観た。
岡本太郎は、空間を支配するような大作を作って観賞者を外から囲んで非日常へ飛び込めと促しているようである。
それに対し熊谷守一は、小さな作品をするっと心の中に飛び込ませ、普遍的なここちよさを与えてくれる。
ともに現代の人々に働きかけようとする作品である。それに対して最近の若手の作品はいろいろやっているが、迫力がないなと思った。もっと頑張ってほしい。
木村の“法悦感”と“厳粛感”という芸術感は、発想自体とても興味がある。なんといっても若干25歳で、58歳の世に出てない仙人のような画家の凄さを見出し、その後もずっと交流を続けたという美を見出す才能はどうやって構築されたのだろうか。
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