神風特別攻撃隊は大東亜戦争
末期に資源・人材に困窮し
追い詰められた大日本帝国海軍で、
1944年10月20日
大西瀧治郎海軍中将
によって編成された艦船を目標とする航空機による特別攻撃隊であり
開始時こそ戦果を挙げたが、アメリカ軍の対策により一時的なものに終わり
戦局を覆すことはなかったが、1945年8月15日の終戦まで続けられた。最も有名な特攻だ。
神風特別攻撃隊の初出撃は1944年10月21日で、
大和隊・敷島隊・朝日隊・山桜隊の計24機が出撃した
同日は敵艦が発見出来ずほぼ全機が帰還したものの、
大和隊隊長・久納好孚中尉が未帰還となった。
そのため、「特攻第1号」は敷島隊隊長・関行男ではなく、
大和隊隊長・久納好孚大尉を未確認ながら第一号とする主張も戦後現れた。
各隊は出撃を連日繰り返すも全て空振りに終わり、
同月23日には大和隊・佐藤馨上飛曹が未帰還となる。
そして同月25日午前
10時49分
敷島隊指揮官の関以下6機が空母「セント・ロー」を撃沈し、
初戦果を挙げて活路を開いたが、突入する水上部隊だった栗田艦隊が『突然反転』したため、特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。
◆特攻の父と呼ばれる
大西瀧治郎が特攻隊員に行った訓示。
「日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは、大臣でも軍令部総長でも、自分のような地位の低い司令官でもない。したがって、自分は一億国民にかわって、みなにこの犠牲をお願いし、みなの成功を祈る。みなはすでに神であるから、世俗的な欲望はないだろう。が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが成功したかどうか、であろう。みなは永い眠りにつくのであるから、それを知ることはできないだろう。我々もその結果をみなに知らせることはできない。自分はみなの努力を最期までみとどけて、上聞に達するようにしよう。この点については、みな安心してくれ」
◆玉井副長と関大尉の面会
やがてコトリコトリとしずかな足取りが降りてきて、長身の関大尉の姿が士官室にあらわれた。急いだのだろう、カーキ色の第三種軍装を引っかけている。玉井副長に近寄って、
「およびですか?」
と聞いた。玉井副長はすぐそばの椅子をかれにすすめ、もの音の絶えた夜気の静けさのなかに、われわれはむかいあった。
玉井副長は、隣にすわった関大尉の肩を抱くようにし、二、三度軽くたたいて、
「関、きょう長官がじきじき当隊にこられたのは、『捷号』作戦を成功させるために、零戦に250キロの爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい、という計画をはかられるためだったのだ。これは貴様もうすうす知っていることだろうとは思うが、・・・・・ついてはこの攻撃隊の指揮官として、貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか?」
と、涙ぐんでたずねた。関大尉は唇をむすんでなんの返事もしない。両肱を机の上につき、オールバックの長髪を両手でおさえて、目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。----1秒、2秒、3秒、4秒、5秒・・・・・・・・・
と、かれの手がわずかに動いて、髪をかきあげたかと思うと、しずかに頭を持ちあげて言った。
「ぜひ、私にやらせてください」
すこしのよどみもない明瞭な口調であった。
玉井中佐も、ただ一言、
「そうか!」と答えて、じっと関大尉の顔を見つめた。
◆同盟通信特派員 小野田政と関大尉の会話記録 (「ドキュメント神風」より引用)
数日間下痢に悩んでいた関は、その日の夕方、マバラカット基地バンバン川の土手で同盟通信特派員の小野田政に会った。関の話しぶりは、特攻攻撃のやり方全般について、それほど気乗りしていない様子であった。関はこう語った。
「ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ。やらせてくれるなら、ぼくは体当たりしなくとも500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中させて帰ることができる。ぼくは明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛のKA[妻のこと、海軍士官の隠語-訳注]のためにいくんだ。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ。」
25日、敷島隊の関行男大尉以下6機が、4度目の出撃で1機(2機)
が米海軍護衛空母「セント・ロー」を撃沈したのをはじめ、
大和隊の4機、朝日隊の1機、
山桜隊の2機、菊水隊の2機、
若桜隊の1機、彗星隊の1機等が次々に突入し、
護衛空母を含む5隻に損傷を与える戦果を挙げた。これを大本営海軍部は大々的に発表し、
敷島隊指揮官であった関は軍神として祀り上げられることとなった。
関は特攻第1号ではなかった、国民へまた、他の軍人に向けた演出
華々しい戦果が必要であったのだろう。
当時、関大尉特攻第1号と強調する事は理解出来る、
戦後占領下から軍部批判
する勢力がそのままにするのは、特攻は片道燃料で行われた
と言う嘘を隠す為と思われる
栗田艦長の『謎の反転』についても戦後栗田氏が逃げたなどの冷やかな批判も多く謎となっていたが
今では特攻が遅れ、作戦遂行困難で空の輸送船を捨て身で攻撃するより別の戦地へ向かう為と
理由がわかるが、確実に両者間に温度差が感じられる。
◆神風特攻よりも早く考案されたのが回天だ
人間魚雷の構想は、ガダルカナル島での敗北後に日本海軍内で上がっていた。
竹間忠三大尉は「(戦勢の立て直しは)必中必殺の肉弾攻撃」として、
人間魚雷の構想を軍令部の井浦祥二郎中佐に対して送り、
井浦も人間魚雷の実現性を打診したが、
艦政本部は消極的で軍令部首脳は認めなかった。
1943年12月、伊一六五型潜水艦水雷長・入沢三輝大尉と航海長・近江誠中尉が、戦局打開の手段としてまとめた
「人間魚雷の独自研究の成果」を軍令部と連合艦隊に献策したが、全く受け入れられなかった。
1943年末、甲標的搭乗員の黒木博司大尉と仁科関夫中尉は回天の原型に基づいて検討を行い、
これを山田薫に対して進言するも、省部との交渉が不十分だと判断して自ら中央に血書で請願を行った。
これを受けたのは海軍省軍務局第一課の吉松田守と軍令部作戦課潜水艦部員藤森康男だった。
1943年12月28日に藤森から永野修身軍令部総長へこの人間魚雷が上申されるが、「それはいかんな」と明言されて却下された。
しかし、この後の上申は軍務局第一課長の山本善雄大佐を動かし、
黒木はこの時、全面血書の請願書を提出した。
戦局の悪化は著しく、マーシャル失陥やトラック空襲などで日本軍の治安は悪化する一方だったことから、
1944年2月26日、中央は海軍工廠魚雷実験部に対して、黒木・仁科両者が考案した人間魚雷の試作を命じた。
最初は乗員の海中放出が条件にあった。
1944年4月4日軍令部第2部長黒島亀人の作成した「作戦上急速実現を要望する兵力」
の中で大威力魚雷として人間魚雷が提案された。この後、人間魚雷に「○6(マルロク)」の仮名称がついた。
1944年7月25日、試作機の試験が大入島発射場で行われたが、
脱出装置が未完成のために装備されなかった。
また、この試験を終えて兵器としての問題点が指摘された。
指摘の主なものは「魚雷改造の艇のため後進ができない」
「旋回半径が大きすぎる」
「最大80mしかない潜航深度が母艦の大型潜水艦の深度を制限し、水中機動の妨げになる」
などが挙げられたが、これらの問題点は改善されることなく、
1944年8月1日に海軍大臣の決裁によってそのまま正式に兵器として採用された。
試験で挙げられた3つの問題点は、終戦まで解決されなかった。
1944年8月15日、大森は「この兵器(回天)を使用するべきか否かを判断する時期に達した」
と発言した。そして同月、大森によって明治維新の船名から「回天」と命名される。
そして1944年9月1日、山口県大津島に板倉光馬少佐、黒木博あお司、仁科関夫が中心となって基地が開隊され、
同月5日より全国から志願して集まった搭乗員達による本格的な訓練が開始された。
これが組織的な回天特攻の始まりである。
一方、回天の生産は、8月末までに100基の1型を生産する計画が立てられたものの、
実生産数は9月半ばまでに20基、以後は日産3基が呉市の工廠の限界だった。
これは、アメリカ軍が実施した海上輸送の破壊による資材不足や損傷艦の増大、
この頃より本格化したB-29による本土空襲、工員の不足や食料事情の悪化が生産を妨げたためである。
訓練初日の9月6日、提唱者の黒木と同乗した樋口が殉職する事故が起きる。
黒木の操縦する回天は荒波によって海底に沈挫、同乗の樋口大尉と共に艇内で窒息死するまで事故報告書と遺書、辞世などを残した。
この出来事は「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高め、
搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、
技術を習得した優秀な者から順次出撃していった。
1944年9月下旬までに回天の整備が進み、「玄作戦」が立案される。
1944年10月からは、回天を搭載させるために改造した第15潜水隊の3隻の潜水艦によって周防灘で最後の総合訓練を実施し、
10月下旬には連合艦隊司令長官から回天による特別攻撃命令が発せられた。
1944年11月8日、「玄作戦」のために大津島基地を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として伊三六潜、伊三七潜、伊四七潜に各4基ずつ搭載)の12基が回天特攻の初陣である
回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」が1944年11月20日決行された。
金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、 轟隊、多聞隊と終戦の1週間前まで、計148基の回天が出撃した。
すでに制海権も制空権も完全に敵の手中にあり、母艦となる大型潜水艦は次々と撃沈されていった。
ガダルカナルの壮絶な戦いの後であるから1943年2月以降
から特攻の発案がなされ
1944年10月の神風特攻
1944年11月の回天特攻
まで
圧倒的戦力差で戦いながら試行錯誤で二年間近く戸惑いながらも
少しでも有利に少しでも勝利に近付きたい
特攻を命令するものは恐らくされる者よりも苦渋の決断であっただろう。
大西瀧治郎中将は一人で614名の隊員を握手して送っており終戦の翌日自決している。
『栗田艦長の謎の反転』は最初の特攻を目の当たりにしてからであるが
水雷学校教頭でもあった彼の
無言の抵抗だったのかもしれない。
のちに同じ艦で栗田艦長に反転に不服だった生存者の証言で怪電報が存在していたようだが、
今となっては誰も責める事は出来ない。たとえ特攻に関わり戦後生き残った者でも責められる筋合いはない。
唯一まごうことのない事実は彼らの犠牲の上に
我々日本人は生きている。
海軍
海軍航空特攻隊員:2,531名
特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
回天特攻隊員:104名
震洋特攻隊員:1,081名
合計:4,156名
陸軍
陸軍航空特攻隊員:1,417名
丹羽戦車特攻隊員:9名
海上挺進戦隊員(マルレ):263名
合計:1,689名
この他に第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員、移動中の乗船海没などにより地上戦に参加した戦没者、義烈空挺隊等の特攻作戦関連戦没者などが以下となる。
第二艦隊戦没者:3,751名
回天部隊関連戦没者:1,083名
震洋部隊関連戦没者:1,446名
陸軍航空関連戦没者:177名
海上挺進戦隊関連戦没者:1,573名
空挺部隊関連戦没者:100名
その他(終戦時自決、神州不滅特別攻撃隊、大分701空による「宇垣軍団私兵特攻」など)戦没者:34名
合計:8,164名
以上合計14,009名が特攻による犠牲者だ。
満洲事変 1万7176柱
支那事変 19万1250柱
大東亜戦争 213万3915柱
確実に言えるのは
2,466,584柱の靖国に祀られる御英霊のお陰で
今の日本は成立している。
末期に資源・人材に困窮し
追い詰められた大日本帝国海軍で、
1944年10月20日
大西瀧治郎海軍中将
によって編成された艦船を目標とする航空機による特別攻撃隊であり
開始時こそ戦果を挙げたが、アメリカ軍の対策により一時的なものに終わり
戦局を覆すことはなかったが、1945年8月15日の終戦まで続けられた。最も有名な特攻だ。
神風特別攻撃隊の初出撃は1944年10月21日で、
大和隊・敷島隊・朝日隊・山桜隊の計24機が出撃した
同日は敵艦が発見出来ずほぼ全機が帰還したものの、
大和隊隊長・久納好孚中尉が未帰還となった。
そのため、「特攻第1号」は敷島隊隊長・関行男ではなく、
大和隊隊長・久納好孚大尉を未確認ながら第一号とする主張も戦後現れた。
各隊は出撃を連日繰り返すも全て空振りに終わり、
同月23日には大和隊・佐藤馨上飛曹が未帰還となる。
そして同月25日午前
10時49分
敷島隊指揮官の関以下6機が空母「セント・ロー」を撃沈し、
初戦果を挙げて活路を開いたが、突入する水上部隊だった栗田艦隊が『突然反転』したため、特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。
◆特攻の父と呼ばれる
大西瀧治郎が特攻隊員に行った訓示。
「日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは、大臣でも軍令部総長でも、自分のような地位の低い司令官でもない。したがって、自分は一億国民にかわって、みなにこの犠牲をお願いし、みなの成功を祈る。みなはすでに神であるから、世俗的な欲望はないだろう。が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが成功したかどうか、であろう。みなは永い眠りにつくのであるから、それを知ることはできないだろう。我々もその結果をみなに知らせることはできない。自分はみなの努力を最期までみとどけて、上聞に達するようにしよう。この点については、みな安心してくれ」
◆玉井副長と関大尉の面会
やがてコトリコトリとしずかな足取りが降りてきて、長身の関大尉の姿が士官室にあらわれた。急いだのだろう、カーキ色の第三種軍装を引っかけている。玉井副長に近寄って、
「およびですか?」
と聞いた。玉井副長はすぐそばの椅子をかれにすすめ、もの音の絶えた夜気の静けさのなかに、われわれはむかいあった。
玉井副長は、隣にすわった関大尉の肩を抱くようにし、二、三度軽くたたいて、
「関、きょう長官がじきじき当隊にこられたのは、『捷号』作戦を成功させるために、零戦に250キロの爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい、という計画をはかられるためだったのだ。これは貴様もうすうす知っていることだろうとは思うが、・・・・・ついてはこの攻撃隊の指揮官として、貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか?」
と、涙ぐんでたずねた。関大尉は唇をむすんでなんの返事もしない。両肱を机の上につき、オールバックの長髪を両手でおさえて、目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。----1秒、2秒、3秒、4秒、5秒・・・・・・・・・
と、かれの手がわずかに動いて、髪をかきあげたかと思うと、しずかに頭を持ちあげて言った。
「ぜひ、私にやらせてください」
すこしのよどみもない明瞭な口調であった。
玉井中佐も、ただ一言、
「そうか!」と答えて、じっと関大尉の顔を見つめた。
◆同盟通信特派員 小野田政と関大尉の会話記録 (「ドキュメント神風」より引用)
数日間下痢に悩んでいた関は、その日の夕方、マバラカット基地バンバン川の土手で同盟通信特派員の小野田政に会った。関の話しぶりは、特攻攻撃のやり方全般について、それほど気乗りしていない様子であった。関はこう語った。
「ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ。やらせてくれるなら、ぼくは体当たりしなくとも500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中させて帰ることができる。ぼくは明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛のKA[妻のこと、海軍士官の隠語-訳注]のためにいくんだ。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ。」
25日、敷島隊の関行男大尉以下6機が、4度目の出撃で1機(2機)
が米海軍護衛空母「セント・ロー」を撃沈したのをはじめ、
大和隊の4機、朝日隊の1機、
山桜隊の2機、菊水隊の2機、
若桜隊の1機、彗星隊の1機等が次々に突入し、
護衛空母を含む5隻に損傷を与える戦果を挙げた。これを大本営海軍部は大々的に発表し、
敷島隊指揮官であった関は軍神として祀り上げられることとなった。
関は特攻第1号ではなかった、国民へまた、他の軍人に向けた演出
華々しい戦果が必要であったのだろう。
当時、関大尉特攻第1号と強調する事は理解出来る、
戦後占領下から軍部批判
する勢力がそのままにするのは、特攻は片道燃料で行われた
と言う嘘を隠す為と思われる
栗田艦長の『謎の反転』についても戦後栗田氏が逃げたなどの冷やかな批判も多く謎となっていたが
今では特攻が遅れ、作戦遂行困難で空の輸送船を捨て身で攻撃するより別の戦地へ向かう為と
理由がわかるが、確実に両者間に温度差が感じられる。
◆神風特攻よりも早く考案されたのが回天だ
人間魚雷の構想は、ガダルカナル島での敗北後に日本海軍内で上がっていた。
竹間忠三大尉は「(戦勢の立て直しは)必中必殺の肉弾攻撃」として、
人間魚雷の構想を軍令部の井浦祥二郎中佐に対して送り、
井浦も人間魚雷の実現性を打診したが、
艦政本部は消極的で軍令部首脳は認めなかった。
1943年12月、伊一六五型潜水艦水雷長・入沢三輝大尉と航海長・近江誠中尉が、戦局打開の手段としてまとめた
「人間魚雷の独自研究の成果」を軍令部と連合艦隊に献策したが、全く受け入れられなかった。
1943年末、甲標的搭乗員の黒木博司大尉と仁科関夫中尉は回天の原型に基づいて検討を行い、
これを山田薫に対して進言するも、省部との交渉が不十分だと判断して自ら中央に血書で請願を行った。
これを受けたのは海軍省軍務局第一課の吉松田守と軍令部作戦課潜水艦部員藤森康男だった。
1943年12月28日に藤森から永野修身軍令部総長へこの人間魚雷が上申されるが、「それはいかんな」と明言されて却下された。
しかし、この後の上申は軍務局第一課長の山本善雄大佐を動かし、
黒木はこの時、全面血書の請願書を提出した。
戦局の悪化は著しく、マーシャル失陥やトラック空襲などで日本軍の治安は悪化する一方だったことから、
1944年2月26日、中央は海軍工廠魚雷実験部に対して、黒木・仁科両者が考案した人間魚雷の試作を命じた。
最初は乗員の海中放出が条件にあった。
1944年4月4日軍令部第2部長黒島亀人の作成した「作戦上急速実現を要望する兵力」
の中で大威力魚雷として人間魚雷が提案された。この後、人間魚雷に「○6(マルロク)」の仮名称がついた。
1944年7月25日、試作機の試験が大入島発射場で行われたが、
脱出装置が未完成のために装備されなかった。
また、この試験を終えて兵器としての問題点が指摘された。
指摘の主なものは「魚雷改造の艇のため後進ができない」
「旋回半径が大きすぎる」
「最大80mしかない潜航深度が母艦の大型潜水艦の深度を制限し、水中機動の妨げになる」
などが挙げられたが、これらの問題点は改善されることなく、
1944年8月1日に海軍大臣の決裁によってそのまま正式に兵器として採用された。
試験で挙げられた3つの問題点は、終戦まで解決されなかった。
1944年8月15日、大森は「この兵器(回天)を使用するべきか否かを判断する時期に達した」
と発言した。そして同月、大森によって明治維新の船名から「回天」と命名される。
そして1944年9月1日、山口県大津島に板倉光馬少佐、黒木博あお司、仁科関夫が中心となって基地が開隊され、
同月5日より全国から志願して集まった搭乗員達による本格的な訓練が開始された。
これが組織的な回天特攻の始まりである。
一方、回天の生産は、8月末までに100基の1型を生産する計画が立てられたものの、
実生産数は9月半ばまでに20基、以後は日産3基が呉市の工廠の限界だった。
これは、アメリカ軍が実施した海上輸送の破壊による資材不足や損傷艦の増大、
この頃より本格化したB-29による本土空襲、工員の不足や食料事情の悪化が生産を妨げたためである。
訓練初日の9月6日、提唱者の黒木と同乗した樋口が殉職する事故が起きる。
黒木の操縦する回天は荒波によって海底に沈挫、同乗の樋口大尉と共に艇内で窒息死するまで事故報告書と遺書、辞世などを残した。
この出来事は「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高め、
搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、
技術を習得した優秀な者から順次出撃していった。
1944年9月下旬までに回天の整備が進み、「玄作戦」が立案される。
1944年10月からは、回天を搭載させるために改造した第15潜水隊の3隻の潜水艦によって周防灘で最後の総合訓練を実施し、
10月下旬には連合艦隊司令長官から回天による特別攻撃命令が発せられた。
1944年11月8日、「玄作戦」のために大津島基地を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として伊三六潜、伊三七潜、伊四七潜に各4基ずつ搭載)の12基が回天特攻の初陣である
回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」が1944年11月20日決行された。
金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、 轟隊、多聞隊と終戦の1週間前まで、計148基の回天が出撃した。
すでに制海権も制空権も完全に敵の手中にあり、母艦となる大型潜水艦は次々と撃沈されていった。
ガダルカナルの壮絶な戦いの後であるから1943年2月以降
から特攻の発案がなされ
1944年10月の神風特攻
1944年11月の回天特攻
まで
圧倒的戦力差で戦いながら試行錯誤で二年間近く戸惑いながらも
少しでも有利に少しでも勝利に近付きたい
特攻を命令するものは恐らくされる者よりも苦渋の決断であっただろう。
大西瀧治郎中将は一人で614名の隊員を握手して送っており終戦の翌日自決している。
『栗田艦長の謎の反転』は最初の特攻を目の当たりにしてからであるが
水雷学校教頭でもあった彼の
無言の抵抗だったのかもしれない。
のちに同じ艦で栗田艦長に反転に不服だった生存者の証言で怪電報が存在していたようだが、
今となっては誰も責める事は出来ない。たとえ特攻に関わり戦後生き残った者でも責められる筋合いはない。
唯一まごうことのない事実は彼らの犠牲の上に
我々日本人は生きている。
海軍
海軍航空特攻隊員:2,531名
特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
回天特攻隊員:104名
震洋特攻隊員:1,081名
合計:4,156名
陸軍
陸軍航空特攻隊員:1,417名
丹羽戦車特攻隊員:9名
海上挺進戦隊員(マルレ):263名
合計:1,689名
この他に第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員、移動中の乗船海没などにより地上戦に参加した戦没者、義烈空挺隊等の特攻作戦関連戦没者などが以下となる。
第二艦隊戦没者:3,751名
回天部隊関連戦没者:1,083名
震洋部隊関連戦没者:1,446名
陸軍航空関連戦没者:177名
海上挺進戦隊関連戦没者:1,573名
空挺部隊関連戦没者:100名
その他(終戦時自決、神州不滅特別攻撃隊、大分701空による「宇垣軍団私兵特攻」など)戦没者:34名
合計:8,164名
以上合計14,009名が特攻による犠牲者だ。
満洲事変 1万7176柱
支那事変 19万1250柱
大東亜戦争 213万3915柱
確実に言えるのは
2,466,584柱の靖国に祀られる御英霊のお陰で
今の日本は成立している。
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