


ナチスの強制収容所服をイメージしたのは私だけではあるまい。



『大手メディアがこぞって在日イスラム教徒は墓がなくて困っていると報じるのは、日本は不寛容でダメな国だと強調したいからだろうが、日本ではモスク建設し放題だがイスラム諸国で寺や神社を建設することなど不可能だ。日本には既にイスラム墓地もある。不寛容はどちらだ。』
つまり、大手メディアは他宗教に対して不寛容という印象操作をしたいのだろう。
性暴力とは、被害者との関係の如何を問わず、暴力または強制を伴った性行動や人身売買を行ったり、それらを行おうとしたりする行為を指す。
人身売買
「人身や行動範囲を強く拘束するような契約を、当人の了承を要さずに他人間でかってに売買し、それが人道的に悪質であるもの」のことである。
悪い典型的な形は「高額の契約金を当人でなく別の者が受け取り(または高額の密入国費用を借金して払い)、当人が何年も不自由な場所で拘束され、知らぬ間に別の相手や場所へ契約が移転し、価値観上または肉体的に苦痛か危険な労働を長期間強制されて過ごすうちに当人に不利な条件が追加されて抜けられない」というような状況である。(管理売春であるというだけではこれに当てはまらない。)
性暴力という言葉は上記のような物理的な暴力に加え言葉や視覚的(見せる)なものも含みかなり幅広く使われている。
例えればセクハラと呼ばれる「最近痩せたね」であるとか「いくら?」等値踏みする行為も性暴力の範疇に含まれる。
従ってセクハラから強姦という広範囲にわたるものを一纏めに性暴力と表現することが慰安婦問題では遡及的に伊藤詩織問題では被害の拡大化として利用されている。
伊藤詩織氏を影響力のある世界の100人に推薦文を書いた上野千鶴子は安倍元総理の事を『沖縄の心をカネで売るのか?いや、強姦したあと札束を投げつけて去る男』と揶揄しているが、この批判自体が性暴力と呼べるのではないだろうか。
伊藤詩織氏に話を戻すが、これは伊藤氏ではなく伊藤氏を支える弁護団とメディアへの批判であるが、刑事裁判で準強姦が不起訴になり、民事裁判で望まない性行為が認められたら主張をまた準強姦に変えている。
ここに『伊藤詩織は性暴力の被害者』という曖昧な被害者を創り出しているのは弁護団とメディアや他ならぬ上野千寿子なのである。