藤森照幸的「心」(最年少被爆者、アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

広島の命の源

2012-09-15 14:23:28 | 社会・経済

002田川の本流である。 幽かに見えるのが、太田川橋。 国道54号線に架かる幹線道路の橋である。 嘗ては、片側一車線の橋としては、日本一の交通量を誇った。山陽と山陰を結ぶ動脈。と言うより、山陰の魚介類を広島市場に運ぶ動脈であったが、高速道が取って代わった。 それだけ渋滞がひどいのである。

太田川の本流は、この橋の下流で、二つの支流と合流し広島のデルタ地帯を作ってきた。

一つが旧可部町の東を流れる根の谷川で、この川筋は毛利氏の両川と呼ばれた、吉川氏の勢力地帯であった。現在もその末裔が居られる。 歌手の吉川浩二はその一族である。

いま一つの支流が三篠川であるが、この支流域には、嘗ての毛利氏の宿敵尼子家の一族の末裔が現在も、家名を永らえている。

根の谷川と太田川本流の合流点には、嘗ての国主、武田家の末裔が家名を伝えているし、その一族によって、私立の大学が居を構えている。

居ながらにして、戦国時代を感じる事の出来る町なのである。

私がわび住まいをしている福王寺は、弘法大師によって創建された安芸国の名刹である。

正式には「金亀山 福王寺」と申し、弘法大師製作の一木造の不動明王像が鎮座していたが、落雷によって消失した。

戦国時代には、僧兵3000、末寺132家寺といわれ、西日本有数の勢力を持っていた。今もその面影を残す境内は勇壮である。

因みに広島県の半数の人間が、太田川水系の恩恵で生活している。その為、上流で取水されるため、川幅は五分の一になってしまっている。

嘗ては川幅いっぱいの水が、滔滔と流れていた。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 我が町 旧可部町 | トップ | 鮎は秋を感じて。 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
台風の影響か今日も秋田は暑いです。 (北国)
2012-09-15 14:54:39
台風の影響か今日も秋田は暑いです。
まさに歴史の町ですね。わたしはまだ広島を訪れたことはありません。神戸までは旅行した記憶があります。せめてパソコンの画像(広島市HPなどで)で楽しんでみます。
返信する
この町から北東に18km。嘗ての毛利氏の本拠地... (深山 霞)
2012-09-15 17:32:52
この町から北東に18km。嘗ての毛利氏の本拠地「吉田」です。郡山城から、安芸武田氏を滅ぼし、長州 陶氏を打ち破り、山陰の勇、尼子氏を倒し中国地方の覇者となったのは、この町の砂鉄の力と、石見銀山だといわれています。
返信する

コメントを投稿

社会・経済」カテゴリの最新記事