そもそも石州街道は、広島から益田までと、広島から浜田までの二つあります。 また、温泉津から、伴の浦までの銀山街道も石州街道と言いますが、この中で、大名行列が通ったのは、広島浜田街道で幕府によって指定された官道でした。 さて始点についてですが、まだ紹介していませんでしたが、今日は道順だけ紹介しておきます。 山陽道も江戸時代に、数回にわたり変化しました。 最初には広島を守るため、できるだけ城下を避けて、街道が決められていました。そして、広島の三角州は三百年の間に大きく変化をとげていきます。のちには人が通ることによる経済効果をねらって、城下に定められました。 そのようにして、最終的に現在の形になったのは江戸中期と思われます。 山陽道から石州街道への分岐点は広瀬町、現在の広島市西区広瀬町が、それにあたります。広瀬町を北に大田川に沿って登ると、楠木村に出ます。ここで船で打越村に渡り、北上します。祇園村を通り、三川村古市、と過ぎ、七軒茶屋に着きます。 ここ迄見送るのが、当時のしきたりであったようです。 余談ですが、山陽道をそのまま西に行くと、佐伯郡己斐村にいたります。そこには別れの茶屋、と呼ばれる店が現在も存在します。私の生まれ育った家の近くで、学校の行き返り、この店から聞こえる餅つきの音を聞きながら通ったのです。 話がそれましたが、七軒茶屋は、八木村です。その村の、最上流に、字 渡というところから、船で可部町へと渡ってきたのです。この街道筋については、国界まで紹介した後、とっくりと、紹介したいと思いますが、残念ながら、石標はほとんど、残っていません。(一人でもの限界を感じています。)道路の拡幅や自動車によって破壊されたと思われます。
ちなみに、この道筋を日本で最初に乗り合いバスが運行された事は、あまり知られていません。井伏鱒二の小説にこの事が書かれています。大田川を挟んで両岸のバス会社が乗客の取り合いをするのです。
この道の大半は、安佐南区に現在属しています。新交通システムの車庫の上が、交通博物館になっているのも、日本で始めてのバスが走った事を記念して作られたのです。私が冗談半分に言ったことが実現してびっくり。行政もなかなかやってくれます。