昭和43年3月 三年間の学習会活動を、今後も続けるか会員で話し合った結果、それぞれの課題がはっきりして来たので、今後はそれぞれがそれぞれの課題に取り組もうという事になった。 自主的解散である。 一部の会員は、大学の通信教育に挑戦を始め、私はボランティア活動に進み、はたまた資格試験に挑戦したものや、プロのミュージシャンに成ったものもいる。
それでも、最低5年に一度は同窓会を何とはなしにやってきた。 今回で五回目の同窓会であった。 会の会員が最大時八十名近くいたが、大学卒業や、看護学校創業と同時に故郷に帰る者や、東京に就職する者等で、連絡可能な会員数は六十名程度であったであろうと思われる。
そのうち今回時間的に都合のついたものが十八名集まった。 集まれなかった会員の中には、福祉施設を退職後も、土曜、日曜、休日等の責任者として未だに社会福祉関係に携わっているものもいる。 ガソリンスタンドの経営者の入り婿からの、百八十度の人生転換を行い、社会的信頼を受けている。 地域社会のリーダーとして活躍しているもの・・・・・・・。多士済々である。 中には「日本棋院」の広島支部のお世話で忙しく参加できなかった者もいる。 久しぶりの顔合わせで、会の結成当事の話題がやはり飛び出した。 特に昭和41年、浜井信三市長を呼んで、「原爆ドーム」解体論に異議を唱えたときの会合は皆の脳裏に焼きついていたようである。
話題は誰が「市長」を呼んできたのかに行き着いた。 私が市長秘書課に飛び込みで要請した事は皆忘れていた。 偶々昭和41年の成人式で、当時の灘尾広吉文部大臣と新成人とのTV対談で都市型青年の家「青少年センターの建設」が決まり、広島市は「寝耳に水」 状態であり、裏で画策した犯人探しがされて、市長と私の間で話し合いがもたれて、それ以来市長との間で約束が存在することとなった。 市政に関わることは事前に秘書課と話し合うということであった。 その関係で私が市長のお出ましをお願いしたのだ。
その時の会場の外には、理美容青年会、広島市青年連合会等の会員も押しかけ話に耳を傾けていた。 この時の会合が後々、「広島市青年団体連絡協議会」に繋がっていき、登山グループから労働組合まで若者が常にコミニケーション出来るようになっていった。
太田川を挟んで北に向かう幹線道路54号線と共に、重要な県道37号線が新しいルートで広島城西側から付け替えられて、「新工兵橋」が付けられたとき、「旧工兵橋」の撤去がなされようとした時、これを阻止したのは、広島市青年連合会を中心にした連絡協議会があったからである。 広島の新しい平和運動の日が灯るやに思われたが、後継者不足は解消できなかった。
高度成長期の波の中で「自己中心」的集団が増えて、少人数の他とかかわらない集団が増えていった。