現在の私は幸いなことに、ブナ、クリを相次いで失った喪失感だけに苛まれ、夜も日もなく泣き暮れる毎日を送らずに済んでいる(ときどきは泣くけど)。
犬たちを失って、ほかの飼い主さんの心ない言動から立ち直れずにいた私に、友人の千恵ちゃんが「みほちゃんは犬たちとの暮らしを通して、目には見えないけれど消えないものを手に入れることができたんだよ。そんなに素晴らしいことはないよ。その大きさに比べたら、人の心のいかに小さなことか」と言った。
肉体は今生の仮の衣でしかなく、ボロボロになれば、やがて脱ぎ捨てなくてはならない日が訪れる。トチもブナもクリも、その肉体が使い物にならなくなるまで一生懸命に生きてくれた。しかも、ただ私のためだけに。ともに暮らした14年という歳月の間、どの子も勝手にどこかに出かけてしまうわけじゃなく、ただただ私の帰りを待ちながら、忠実に私の傍らで生きてくれたのだ。そんな尊い存在があるだろうか。
思い遣りあった時間、私の心に刻まれたゆるぎない思い出、確かに目には見えないけれど消えないものだ。
長年使ってきた肉体にガタがくるのは仕方ないことで、病に蝕まれたり、脳の機能が支障をきたし痴呆症になったりしたけれど、肉体が滅びても魂は朽ちないのではないかと思った。なぜかというとトチが亡くなったあと、私は何度もトチの大きな愛に抱かれた感覚を体験し、また先月はクリが亡くなったあとに、私が運転する車の後部座席にクリがいることを実感したから。そのときの、えも言えぬ幸福感をなんと表現したらいいだろう。
3頭それぞれにあまりにも存在感があったため、彼らがいなくなってしまった空虚感といったら……。自分の手足がもぎ取られたように、音もない室内でなすすべもなく途方に暮れてしまったけれど、それもともに暮らした歳月の素晴らしさに比べれば、ただ肉体が消えただけの、目に見える一時的な現象に過ぎない。
クリは、腫瘍にあんなにからだを蝕まれながらも、それまでと何も変わらない眼差しを私に向け、いつのときも私に応えようとしていた。食べられなくて、本当なら萎えてしまいそうなときでさえ、それまでと変わらぬ在りようを貫こうとしていた。そんな崇高な姿を私は見続けていたのだ、と今、思う。
ブナやクリの闘病中はただただ夢中だったけれど、でも、私は看取りを経験したあとに、飼い犬たちと「いのち」を通わせた素晴らしさを実感できた。看取りが辛かったから、最期が可哀想だったから、もう二度とペットは飼わないという人も少なくないけれど、犬や猫と暮らすことが私たちにどれほど多くの学びを与え、成長させ、素晴らしいことであるか、振り返ってみてほしいです。
人間だっていずれ死んでいく。肉体を手放していく。犬猫を見送る過程での後悔や反省や苦しみは付きまとうものだけど、それを感謝に昇華できれば、またきっと動物たちと助け合える。
暮らしを豊かにしてもらった恩返しというわけではないけれど、私はいずれ行く宛もなく里親を探している犬猫の中から1匹でも2匹でも引き取ってあげられたらいいなと思っている。
だからといって、トチ、ブナ、クリが私の心から消えることは決してない。いつまでも心の特別な場所に存在し続けるだろう。ふたつとないそれぞれのいのちを抱きしめながら、また別のいのちと寄り添う幸せがあることを、私は動物たちから学んのだと思う。