ボッチは夜中に運動会に興じ、突然勢いよく走り回ったり、盛りがついた時のように大声で鳴いたりする。大声で鳴くのはいつものことで耳が遠いから仕方ないとは思うのだけど、それでも外にまで聞こえそうなほどの大声なので、夜中にそれをやられると睡眠が妨げられてちょっと辛い。
短距離疾走と大声のために目を覚ますと、なんとなく漂ってくる臭い……。大きな声で「ウンチをしてすっきりしたよ~」と騒いで走り回っていたのだ。
カヤもそれを知っている。ボッチが夜中に騒ぐと、そっと寝床を抜け出していく。私は慌てて起き出して、カヤより先にトイレのある部屋に直行し、ボッチがウンチをしていたら素早く片付けるようにしている。じゃないと、ボッチのウンチをカヤが食べてしまうからだ。
そうなのです、なんとカヤはボッチのウンチを食べるようになってしまったのだ。先月のいつかは忘れたけれど、カヤがボッチのウンチを食べているのを目撃し、腰を抜かしそうになったのだった。クリにも食糞癖があったけれど、あ"あ"ー、カヤお前もか!って感じ。
犬が自分のフンや猫のフンを食べることは知っていたので驚くことはないのだけど、やはり自分の犬にはしてほしくない。食糞しない犬もいるのだから。
それからというもの、私が仕事をしていると、そばで寝ているとばかり思っていたカヤが、こっそり犬猫トイレ部屋に行っていることがある。自分の排泄とは別に犬猫トイレの部屋に行き、何かいいものが落ちていないか嗅ぎまわっているのだ。
問題はボッチのウンチだけじゃない。これまで自分の食糞はしていなかったのだけど、ここへ来て(1週間ほどかな)自分のブツにまで手を伸ばす、いや、口を出すようになったのである。今朝は二度目の少しゆるい自分のウンチに口をつけた瞬間に現行犯逮捕であった。
カヤ自身のウンチの変化には思い当たることがある。いつも鶏肉とかぼちゃ、芋類など野菜のすり下ろし煮をフードに混ぜてあげているのだが、ここ数日混ぜてやったスープにはニンジンも加わり、これまでと違うレシピだったのだ。おまけに昨夜のエサには亜麻仁オイルも添加したりして。
ううむ、何かが未消化のまま排便されて、その匂いがカヤにとって「美味しそうだった」のかもしれないけれど、食糞が習慣化するのはいただけない。
食糞にはさまざまな原因が考えられる。「1日1~2回の食餌であまりにも空腹のため、糞を食べて『自給自足』で補完しているのではないか説 」というのを読んだ時には爆笑してしまった。笑っている場合ではないのだが、ここでの「自給自足」という言葉にハマってしまったのだ。
このほかにも運動不足説やら必要な消化酵素不足説、かまってもらいたい説、ビタミンK、ビタミンBの不足を補うための「リサイクル」説などなど、いろいろ挙げられていて原因の特定は不可能に近い。
「現時点では犬が食糞する原因とメカニズムが解明されていませんので、食糞するすべての犬に100%の効果が期待できる治療方法は残念ながらありません」という一文に納得するしかない。100%の効果は無理にしても、一応あれこれ努力はしてみるつもり。まずはやはりフードの内容か。
しかしなぁ、尿漏れに加えて、新たな問題に食糞が加わるとはねぇ。とにかく最大の予防策は排泄物を「すぐ片付けること」なので、夜中も聴覚と嗅覚にモノをいわせ、厭わず起き出してカヤより先に見回りをし、朝晩のカヤの排泄時にはくっついて行って目を光らせているのである。
私の心配をよそにストーブの前でスヤスヤ。
そんなに近くで寝ていると焦げるよ、カヤ
トチ、ブナ、クリのように「したよ~」って教えに来てくれれば楽なんだけどなぁ。晩年のクリはボッチが排泄しても「してるよ~」って知らせてくれたっけ。パソコンを打っていると腕を盛んにつついて知らせてくれた、あの子たちの湿った鼻先が懐かしい。
病院で処方してもらっている専用の洗浄液で毎日1~2回洗っているのに、カヤの耳の中はなかなかキレイにならない。
うちに来た当初、カヤの耳の中はこげ茶色の大量の耳垢で汚れに汚れていた。繁殖業者の所にいたときには目ヤニも拭ってもらえずガリガリにこびりついていたくらいだから、耳の洗浄などしてもらったこともなかっただろう。
顕微鏡で汚れの原因を検査してくれた先生に「耳ダニですか」と聞くと「いいえ、酵母菌が大繁殖しています」とのことで、たまげてしまったのだった。
「酵母菌」と言われて、私が思い浮かべたのは日本の伝統的な発酵調味料やお酒類やパン。酵母菌が耳の中で繁殖するなんぞ思いもしなかったので「ええ~っ!! 耳の中に酵母菌?!」と思わず叫んでしまったくらい……。
犬の耳の中にいるのはマラセチアという酵母菌。もともと常在菌でいろんなところにいるのだけど、湿気があって風通しの悪い耳の中では繁殖しやすいのだそうだ。特にA・コッカー(だけじゃないけど)の耳の中には毛が生えていて、じめっとしやすく、マラセチアが増殖するにはもってこいの環境のようだ。
トリミングの際に抜けるだけ耳毛を抜いてもらったのだけれど、完全に抜き去ることはできない。初めて診てもらったときに比べると格段にキレイになったと言われたけれど、マラセチアの増殖にまだまだ洗浄が追い付かないという感じ。
なので、左耳の鼓膜もまだ再生されそうになく、もしかしたら一生無理かもしれないとちょっと後ろ向きな気持ちになってしまう。
カヤが左に旋回するのは左耳が聞こえないからかもなぁ。まったく聞こえていないわけではないのだけど、どっちから呼ばれているのか分からないために旋回して壁にぶつかったりする。
気長にコツコツと治療を続けるほかないですね。
『ありがとう。また逢えるよね。』の著者は、曹洞宗の僧侶、横田晴正師。「ペットロス こころの相談室」のサブタイトルがついているように、ペットロスに苦しんでいる人たちに向けた導きの言葉が書かれている本だ。
10年前にどうしたら僧侶になれるのかといった本を書いたとき、在家から僧侶になった方のひとりとして取材させていただいたのが横田師だった。すでにトチ、ブナ、クリと暮らしていた私は、人間だけでなく動物の供養のできる数少ない僧侶であった横田師のお話に共感し、その後に著した拙著『「犬をいっしょに暮らしたい!」と思ったときに読む本』の中でも紹介させていただいたのだった。
このたび発行された『ありがとう。また逢えるよね。』は、出版社の倒産によって一時絶版になっていた同名著書の刷新版で、装丁・挿画・本文扉絵を担当したのは、なんとゼンヨージ画伯なのだ。
センヨージ画伯は私の本のブックデザイン、イラストを担当してくれただけでなく、ブナとクリが召された際には、お悔やみのステキなイラストを送ってくれた、こころやさしい絵描きさんである。絵本も描き、江戸の研究から生まれた江戸関連のイラスト読み物を何冊も上梓している八面六臂の仕事人なのだ。
横田師は『「犬といっしょに~」のゼンヨージ画伯の絵を気に入り、今回ゼンヨージ画伯は直々のご指名だったようです。これもご縁ですねえ。
第5章の「ペット供養Q&A」には、ホッとすること、納得できることなど、慰めになることが書かれており、ペットを喪い、迷っていたり胸を痛めている方にはオススメです。
友人から薦められていた「興福寺仏頭展」の会期の終了が迫っていたので、東京藝術大学美術館に出かけた。上野に行く前に根津神社を詣でた。澄み切った青空と金色に色づいた銀杏の目が覚めるようなコントラストに、しばらく見入ってしまった。
上野公園への道すがら、アジア地域で手作りされた服飾や雑貨を扱っているステキなお店をのぞき、体の芯から温まるとろみのついた熱々のお蕎麦を食べ、路地裏のパン屋さんで手作りのおいしそうなパンを買うといった散策はなんともしみじみと豊かなひと時だった。
それにしても、根津から上野公園周辺は平日でも人手が多い。前回散策したのも平日だった。にもかかわらず、そぞろ歩く人の数がまあ、多いこと。この辺りにあまり馴染みがなかった私にはちょっとした驚きだった。どうもこの周辺は京都などの観光地と変わらない人気スポットらしい。
確かに、落ち着い佇まいの神社仏閣や郷愁をそそる昔ながらの建物、古いモダンな洋式の建造物が建ち並び、風情があるし、美術館、博物館などが集まっているためかアカデミックな雰囲気も味わえる。路地の入口やちょうど休憩したいなと思う辺りに小洒落た喫茶店などがあり、散策する人たちのこころを和ませるような構成になっている。何度訪れても新しい発見がありそうで、興味をひくエリアです。
「それにしても」の連発ですが、それにしても、昨日の興福寺仏頭展は混んでいた。展示物の前はどこも人だかりといった感じで、ごった返していた。展示室になっている地下2階から3階へのエレベーターなど長蛇の列。仕方ないので私は歩いて5階分を昇ったのだけど、いやいや、こんなに人出があるとは思わなかった。
高貴な表情の銅製の「仏頭」は、1411年の火災で胴体を失ったまま行方知れずとなっていたのが、500年の時を経て発見されたという、有難い仏像だそうだ。仏頭だけでも圧巻の大きさなので、全体ではどれほどのものであったか。想像しただけで、当時の製造技術の高さや苦労、人々の思いに押しつぶされそうになったのだった。
法相宗の唯識については展示内容を読めど、すぐには理解できず、これまた、ただただその教えを求めた僧たちの熱い気持ちに驚き、11世紀、13世紀という悠久のかなたで生きた仏師たちの信仰心や精緻な技に息をのむことしかできなかった。
帰宅後、唯識教学について調べてみたのだけど、難解至極。私の頭ではついていけないそうにない。いろいろ探しているうちに、法相宗・薬師寺のホームページに私でも何とか理解できそうな、やさしい解説を見つけたのだった。
「つまり私達の認めている世界は総て自分が作り出したものであるということで、十人の人間がいれば十の世界がある(人人唯識:にんにんゆいしき)ということです。みんな共通の世界に住んでいると思っていますし、同じものを見ていると思っています。しかしそれは別々のものである。
例えば、『手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池』という歌があります。旅行客が猿沢の池(奈良にある池)の旅館で手を打ったなら、旅館の人はお客が呼んでいると思い、鳥は鉄砲で撃たれたと思い、池の鯉は餌がもらえると思って集まってくる、ひとつの音でもこのように受け取り方が違ってくる。一人一人別々の世界があるということです。」
ふむふむ。しかしながら、これだけではいかようにも解釈できそうで、唯識教学が何を説こうとしたのか分かりにくいなあと思いながら、『西遊記』で名高い、かの玄奘三蔵の生涯を説明したページに進んだ。
玄奘三蔵は瑜伽師地論と唯識論の奥義を極めるべく、鎖国状態の唐から3年をかけて天竺に赴き、唯識教学を学んだわけですが、薬師寺の解説によると「玄奘三蔵が翻訳した経典の数は、大般若経600巻をはじめ74部1335巻にのぼります。今、日本で最も読誦される『般若心経』の基となったのは、この大般若経です。」ということだった。
そうか、「般若心経」に通じるのか……、「般若心経」が出てきて初めて、ほんの少しだけわかった気がしたのでした。情けないことに、あくまでも「ほんの少しだけ」だし、わかったというのも「気がした」だけですが。
3度目の「それにしても」ですが、それにしても上野公園一帯は、晴天の降り注ぐ日差しのもと常緑樹の間に赤や黄色の葉がこんもりと点在し、そこらじゅうが輝いていて美しかった。充分目の保養をし、新鮮な気持ちに包まれたのでした。
カヤはウンチやオシッコを踏み散らかすことがなくなったので、長い時間、留守番をさせても帰宅後の手間がなくなった。
私が帰宅すると、たいてい仕事部屋でポツンと座っている。左耳の鼓膜がまだ破れたままなので、大きな物音を立てないと気づかない。帰宅した際、トチやブナ、クリのように、カヤがぐっすり眠っているところを見たことがない。ひとりぼっちで不安なのかもしれない。
私が帰宅したことに気付くと短いしっぽを思い切りプルプルと振って、その場で1回転ジャンプを何度もして喜ぶのだけど、それがすごく可愛い。目が見えないせいで駆け回ったり飛びついたりして喜びを表現することはできないから、ごく狭い範囲で左右に反復横とびを繰り返したり、ジャンプしながらクルクルと高速回転するのだ。フィギアスケートのアクセルジャンプみたいに。
私が家にいる時は私がいる部屋で眠りこけていることがほとんどなのだけど、不在時は不安であまり眠れないのか、長く留守番をした日の夜はトイレにも起きることなく、朝まで爆睡しているが多い。
じいっと寝顔をのぞき込む。A・コッカーはまつ毛まで長い。目尻のまつ毛はさらに長く、それもこの犬種のチャームポイントなんだろうな。
うちに来て5カ月が経とうとしている。7~8年のカヤの生涯の中でたった5カ月間であっても、カヤにとってこころも体も楽になった5カ月間だったなら私もうれしい。
カヤはトイレもほぼ完璧にできるようになり、散歩ができないこと以外、健常な犬と変わらない生活を送っている。本当に手がかからなくなった。
ただ、私にとって犬たちと早朝、河川敷に散歩に行かなくなったことは、運動不足に拍車がかかる大問題である。
ガンジーは言いました。
「非暴力であるためには、鍛えられた体が必要である。なぜなら甘やかされた体には、弱い心しか宿らないからだ。強い心のないところに、どうして魂の力が生まれるだろう」と。
そうなのです。今の私の体は目一杯甘やかされているのです。弱い心しか宿っていないのです。ううむ、よろしくない。とりあえず、早朝のEテレを見ながらラジオ体操でも始めるか。
昨日は、ペット里親会が毎週日曜日に行っている譲渡会にカヤを連れてうかがった。繁殖屋からカヤを救い出し、うちに届けてくれた代表の上杉さん、久木田さんに家庭犬らしくなったカヤを見てもらいたかったのと、少しだけだが調達した犬用シャンプーを届けたかったからだ。
シェルターでカヤの世話をしてくれていたボランティア・スタッフの方たちから「ええ~? ヘレンなの? きれいにしてもらって分からなかったわ」などと口々に言われ、嬉しそうなカヤ、いや、私。
上杉さんをはじめスタッフの方たちは、不幸な境遇に置かれていた犬たちを1頭でも多く家庭のぬくもりの中に送り出したいと願い、面倒な世話も厭わず毎日身を粉にして活動している。本当に頭が下がる。何かしてあげたいと思っても、なかなか行動には移せないものだもの。お金があればできるかといったら、そういうことではない。
会場でスタッフの一人であるちび助ママさんという方が、カンガルーの袋のような大きめのポケットが付いた使い勝手のよさそうなエプロンをしていた。譲渡会に参加していた小型犬たちをひょいっとその袋に入れ、いろいろな用事をこなしているのを見て、とても便利そうなので聞いてみた。
ちび助ママさんがこれまでの経験から手作りしたスリングエプロンだという。リュックサックを前面に抱え持ったかたちで、両肩に重さがかかるので犬の重量が負担にならず、背面には着いたバックルでしっかりフィットするうえ、両手が空くので安全だ。
これまでもカヤに使えるスリングやキャリーバッグを探していたのだけど、既成のものは9キロのカヤでは耐荷重がオーバーしていたり、片方の肩だけに負担がかかるワンショルダータイプで、両手を空けるには不安定な気がして、購入には至らなかった。
ちび助ママさんがカヤをポケットに入れて抱いてくれたところ、カヤは安心した様子ですっぽり収まっていた。そこで私も装着させてもらうことに。
カヤの体重でも十分耐えられるし、フィット感も抜群で両手を離しても安定感があった。犬が入るポケットの他にも小さなポケットが着いていて感動の逸品だった。さっそく1着オーダーすることにしたのでした。
Photo:「花ざかりの森」より
神宮の森
神宮の森は不思議だ
木々の枝という枝から
見えない手が伸びてきて
やわらかな陽だまりに
包まれたような
ぬくもりを感じる
ぴりぴりと冷えた冬の朝でも
ねっとりと蒸した夏の午後でも
わたしの中の癒える力を
だれかが後押ししてくれている
看取り
そこにたどり着くには
長い階段をのぼらなければならなかった
途方もないときが過ぎたような気がする
一方で、一瞬のまばたきの間に
過ぎたような気もする
時計の針は指からこぼれ落ち
いま、ここにある肉体さえ
不透明に思えた
けれど
いくどもの深い呼吸の果てに
震える唇が謳ったものは
死への悼みではなく
生を全うしたいのちの営みの
うつくしさだった
こころ通わせた魂は
いつのときも寄り添いあえるから
生きたという刻印は
こころの中にあればいい
昨日Eテレで久しぶりに辰巳芳子先生を拝見した。相変わらず凛として、食といのちの手応えのお話をされていた。いのちの手ごたえを感じられれば自分を信じることができる。自分を信じられれば、人を信じることもできるとおっしゃっていた。逆にいえば、自分を信じられなければ、他人を信じることはできないないということだ。己を裏切らない、信じるに足る自分でありたいと思った。
昨日は玄米スープの作り方やチキンビーンズの作り方を放送していた。辰巳先生の言葉に触発されて、今日はさっそく大豆を煮たり、玄米を炒ったりした。
昨年の秋、「天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”」という辰巳先生のドキュメンタリー映画を見たのに、なぜあのあと、滋養のある愛のこもった辰巳先生流スープをブナやクリに作ってやらなかったのだろう。小麦色に炒った玄米の香ばしい香りが立ち込めるガス台の前で呆然としてしまった。なんで思い至らなかったんだろう。
寝たきりのクリに“いのちのスープ”を作ってあげればよかった。吐いてしまったかもしれないけれど、クリに飲ませてやりたかった。玄米を煮出しながら、少し泣いた。クリの消え入る寸前のいのちの手応えを思って泣いた。
ゆっくり煮出した玄米スープはブナやクリには飲ませてあげられなかったけれど、カヤには飲ませてあげよう。犬たちにはネギ類を使ったスープはNGだけど、素材の力を生かしたいろいろな“いのちのスープ”を作って、一緒に味わいたいと思う。
ブナが目を患い、徘徊がひどくなった昨年の冬は、ブナが石油ファンヒーターにぶつかって倒すといけないと思い、暖房の転換を考えた。
当時ブナは痩せてしまっていたけれど、それでも大型犬なのでファンヒーターにちょっとぶつかるだけで消火するし、元気があった頃はクリと走り回って実際に一度ファンヒーターを倒したことがあったのだ。幸い点火されていなかったから火災には至らなかったけれど、点火中だったらと思うと背筋がぞっとした。
そこで、昨年11月2日にブナが倒れてからは、エアコンの暖房機能と妹が貸してくれた温風機、それに急遽購入したセラミックヒーター(倒れると消える、小型で安全なタイプ)を使うことにしたのだった。
それから1カ月が過ぎ、届いた電気料金の請求書を見て腰を抜かしてしまった。な、な、なんと2万円を超えているではありませんか! 例年冬場は灯油代も含めて1カ月1万円もしなかったのに、もうびっくり。
ブナ、クリの治療費もかかるし、これではストーブを倒さなくても火の車だ。「ダメだ、うちの経済が破綻しちゃう」ということで、エアコンや消費電力を食う温風機、ヒーターは即やめて、それまで通りに石油ファンヒーターを戻すことにした。
石油ファンヒーターをブナがぶつからないような所に設置してみたところ、寝る部屋の暖房効果は多少減ってしまったけれど、ブナがぶつかって倒すことも消してしまうこともなかった。やれやれ。電気代も元通りになり、胸をなでおろしたのだった。
今年も朝晩冷え込むようになり、押入れから石油ファンヒーターを出してきたのだけど、今度は目の見えないカヤのことを考えてやらなくてはならない。
ぶつかってファンヒーターを倒すことはないけれど、カヤは小さいので、温風の吹き出し口にちょうど顔が当たってしまう可能性がある。そこで「大切な赤ちゃんのために」というキャッチで売られているファンヒーターガードを装着・設置することにし、置く場所によって異なるタイプを購入してみた。
これまで何もなかった場所に物を置くと、カヤがやっと覚え始めた室内の配置や方向感覚を狂わせることになるけれど仕方ない。なるべくカヤの動線の邪魔にならない場所にストーブを置いてあげることにしよう。1カ月も経てば、どういうものがそこにあるのかインプットしてくれるだろうし、これならカヤが直に熱い思いはしなくて済む。